12月4日、水前寺清子(75才)が離婚していたことが一斉に報じられた。結婚31年目の超熟年離婚に世間は驚いたが、その後の夫婦の反応の差はさらに意味深だった。
水前寺は翌朝、自身のブログで離婚報道に対し《今頃かい!! 朝から大笑い》と短くコメントしただけ。一方、元夫の小松明氏(69才)は、スポーツ報知の取材に答え「大好きだし、いまでも(彼女は)おれの体の一部」と、未練があるようにもうかがえた。芸能界屈指のおしどり夫婦といわれたふたり。だが、妻の方は、晩年をどうしても夫とは過ごしたくなかったのかもしれない。
幼い頃から歌の才能を持っていた水前寺だが、順風満帆というわけではなかった。生まれは終戦の年の熊本。実家は化粧品店を営む裕福な家庭で、家にはお手伝いさんも出入りしていた。子供の頃から歌が好きで、地元のコンテストに出てはその歌声を披露していた水前寺。いつしか父は“娘を歌手に”という思いを抱くようになり、日本舞踊やバイオリンなど、さまざまな習い事をさせたという。
しかし、12才になった1957年の冬、父親の事業が行き詰まり家族揃って夜逃げ同然で上京。生活環境は一変し、八畳一間で川の字で眠った。中学生ながら母親の内職を手伝う日々。家計に余裕はなかったが、父親は水前寺に音楽を続けさせた。父親は精肉店でコロッケを揚げる仕事をしながら、水前寺の衣装を仕立てたという。
念願のデビューは19才。着流し姿で歌う『涙を抱いた渡り鳥』は多くのファンの心をつかんだ。以来、『いっぽんどっこの唄』や『三百六十五歩のマーチ』が大ヒットし、NHK紅白歌合戦には22回連続で出場。司会も4回務めた。20代、30代の水前寺は一家の大黒柱、そして、個人事務所のスタッフを養う稼ぎ頭として仕事に邁進した。
そうしたなかで出会ったのが、小松氏。サックスプレーヤーだった小松氏はバンドの指揮者も務めており、1985年のつくば万博で、水前寺のバックバンドとして共演をしたのが初対面。小松氏は水前寺より6才年下だったが、彼女から信頼され、経理などの仕事をサポートするようになった。
「当時、水前寺さんは個人事務所の経営に無頓着で、自分がいくら稼いで、スタッフがいくら使っているのかすら把握していませんでした。彼がいなければ、事務所は金銭的にかなり追い込まれていたと思います。水前寺さんは、彼に身も心も許し、公私共にパートナーとなったのです」(業界関係者)