2020年2月に亡くなった野村克也氏は、選手としても指導者としても一流の成績と、一流の教え子たちを残した。『週刊ポスト』(2020年12月21日発売号)では、8人の球界名士が「ノムさんが遺した言葉」を語っている。そこに収録できなかった未公開証言をNEWSポストセブン読者にお届けしよう。
まずは野村氏が1954年の入団から1977年の退団まで過ごした南海ホークス時代の教え子だった江本孟紀氏の証言。プロ入り2年目の1972年に東映から南海にトレードされると、プレイングマネージャーだった野村氏とバッテリーを組み、いきなり16勝をあげてエースに。4年連続で2桁勝利をあげ、1973年にはリーグ優勝に貢献した。1975年オフに江夏豊氏とのトレードで阪神に移籍するまで野村氏とのコンビで活躍した。
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ノムさんは僕、江夏豊、門田博光の3人を「三悪人」と呼んでいたけど、南海の4年間でノムさんのサインに首を振ったことなんか一度もないんですよ(笑い)。ノムさんは「ワシのサインが気に入らんかったら遠慮なく首を振れ」と言っていたし、サイン通りに投げて打たれた時は、ベンチで「悪かったな。すまん、ワシのせいや」と謝りに来てくれました。
ノムさんと初めて会ったのは、トレードされた1972年1月の合同自主トレでした。グリーンのリンカーンでクラクションを鳴らしながら球場の中まで乗り付けて、ドアを開けるなり、「俺みたいな生活がしたければしっかりやれよ」と憎らしいことを言う。ところが、そのあと僕のところに来て、「お前、去年は敗戦処理で投げていたけど、あの球を俺が受けると10勝以上するぞ」と囁くんです。ルーキーだった東映の1年目は0勝4敗ですよ。そんなアホな、と思いました。でも、初対面でそう言われてシビレたなあ。それで、背番号16のまっさらな南海のユニフォームを手渡してくれて、「10勝以上するとエースだから、今日からエース番号をつけとけ」と言うんだから、おだてるにもほどがあるんだけど、背中に電気が走りましたね。マザーテレサかと思いましたよ(笑い)。