野村克也氏が亡くなったのは2020年2月。まもなく1年が経とうとしているが、その教えと言葉は今も球界に燦然と輝く。『週刊ポスト』(2020年12月21日発売号)では、野村監督の教えを受けた4つの球団の名手8人が、「ノムさんの言葉」を回想している。そこに収録できなかった未公開証言をNEWSポストセブン読者にお届けしよう。
本稿では、監督として3年間指揮した阪神タイガースの2人の証言を紹介する。野村氏はプレイングマネージャーだった南海、1990年代に黄金時代を築いたヤクルトではリーグ優勝を果たし、最後に指揮を執った楽天でも、弱小球団を4シーズンで2位に押し上げる手腕を見せた。しかし、阪神監督を務めた3年間(1999~2001年)は3年連続の最下位に沈んだ。野村氏の教えはその後に花開き、2003年には28年ぶりにリーグ優勝、2005年にも優勝を果たす。野村氏の撒いた種は確実に育っていたのである。
* * *
6年連続のBクラス、特に貧打にあえいでいた阪神の監督に就任した野村氏は、得意の「貧者の野球」を展開するため、機動力を活かした攻撃を模索した。俊足選手を好んで起用し、「F1セブン」と呼んだが、その「1号車」に指名されたのが、のちに5年連続盗塁王となる赤星憲広氏だった。野村阪神最終年の2001年にルーキーだった赤星氏は、野村氏から盗塁では「キャッチャーをよく見ろ」と教えられたエピソードを週刊ポストで語っている。1シーズンだけの師弟関係だったが、赤星氏は野村氏の温かい人柄に支えられたと語る。
「ノムさんからは『強いゴロかライナーを打てば足を活かせる』というアドバイスももらいました。『当てただけのゴロは、プロの内野手ではヒットにならない。アマチュアと違って当て逃げは通用しない』というのです。プロで生きるための発想をもらいましたね。
1年目には盗塁王と新人王をいただきましたが、ノムさんからは『お前はこれくらいできて当たり前の選手だ』とほめてもらいました。でもそれに続けて『この程度で満足しちゃいかんぞ』とも言われました。その年限りでノムさんは退団されてしまいましたが、その最初の契約更改の時、ノムさんからの伝言を聞かせてもらいました。『普通に勉強すれば、お前は楽々3割打てる』、それから『背番号(53番)をもっと軽くしてやってくれ』という2つです。それだけ気にかけてもらっていたことがうれしかったですね。背番号は変えませんでしたが(笑い)。
ノムさんは、ボヤきとか、厳しい監督というイメージで見られていますが、細かい気配りをしてくれる優しい人だと思います。僕がケガで引退することになった時、唯一止めてくれたのがノムさんでした。星野仙一さんとノムさんには事前に連絡したのですが、ノムさんは、『ちょっと待て。まだなんとでもなるやろ。俺の知り合いに診てもらって、その人たちがダメと言えば納得できるが、それまでは引退は待て』と親身になって話してくれました。情の厚い人でした。引退後も球場で会うと、あちらから話しかけてくれました」