2020年2月に亡くなった野村克也氏は、プレイングマネージャーだった南海を皮切りに、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務め、それぞれチーム強化を成し遂げた。なかでも、1990年から9シーズン指揮を執ったヤクルトでは、4度のリーグ優勝と3度の日本一に輝き、万年Bクラスだった弱小チームを常勝軍団に変身させた。
『週刊ポスト』(2020年12月21日発売号)では、野村氏の教えを受けた4球団の元主力8人が「ノムさん語録」を語っている。そこに収録しきれなかった未公開証言をNEWSポストセブン読者にお届けする。本稿では、野村ヤクルトで活躍した2人の名手にご登場いただこう。
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1986年のドラフト4位でヤクルトに入団した飯田哲也氏の本職はキャッチャーだった。その強肩は古田敦也氏と遜色なく、野村氏の直弟子になる可能性もあった。しかし、監督に就任した野村氏は飯田氏の俊足に注目し、90年シーズンにはセカンド、91年シーズンからはセンターでレギュラー起用し、のちに史上最高の外野手と評される才能を開花させた。
飯田氏は週刊ポストで、足を活かした選手になれと教わったエピソードを披露しているが、「適材適所」と並ぶ野村野球の肝は「考える野球」である。野村氏はミーティングを大事にすることで知られたが、飯田氏もその時間が野球人として糧になったと振り返る。
「野村監督のミーティングは講演会みたいなものでした。キャンプ中は毎日『野村克也講演会』が開かれているみたいなものです。とても面白かったし勉強にもなるので、必死でメモを取りました。
データ野球というイメージがある野村監督ですが、印象に残っている言葉のひとつは『自分の直感を信じなさい』というものです。『経験に基づいた直感でプレーすることも重要』という教えなのですが、もちろんその直感には根拠がなければいけない。こっちに飛んでくるかな、という“ただの勘”ではダメで、“バットを短く持っているし、ピッチャーの球は速いからライト方向にしか飛ばないだろう”といった根拠を見つけて動かないと怒られる。野村監督の下で野球をやると考える力がつきます。それは指導者になってからとても助かりましたね」