“お参り”という名目で
大正時代になると、江戸時代から続く吉原遊廓にも変化が起きた。明治時代まではショウウィンドウのように格子越しに娼妓たちを座らせ、客に選ばせる「張見世」のスタイルだったが、時代の波が押し寄せる。
「大正に入ると『まるでカゴの鳥。人権問題だ』として警視庁令で禁止され、代わりに娼妓たちの写真を店先に並べる『写真見世』になった。実物を見られなくなり客には不評だったようですが、現在の風俗店の店前に写真を貼り出すスタイルの原型と言えます」(下川氏)
当時は、いまでは想像もつかない場所が“売春スポット”として栄えていたという。そのひとつが明治神宮周辺だ。
「明治神宮に“お参りする”という名目で、周辺にある連れ込み宿に私娼を連れて入る、というスタイルが流行っていました。本格的に排除されたのは昭和30年代に入ってからです」(下川氏)
浅草を代表する観光スポットだった展望塔「浅草十二階」(正式名称は凌雲閣)も同様だ。
「真下は『浅草十二階下』と呼ばれ、銘酒屋が並んでいました。そこは働いている女性と一緒に飲食を楽しめる場所になっていて、売春用に酒屋の2階を連れ込み宿として貸している店もあった」(下川氏)
しかし、大正12年(1923)に関東大震災が発生。浅草十二階は半壊して解体を余儀なくされ、吉原は炎上して壊滅的な被害を被った。そして時代は、モダンとロマンに彩られた大正から、激動の昭和へと移っていく。
「大正は近代に入り、男女とも自己主張したいという気持ちが強く現われた時代であり、性愛はその象徴だったのかもしれません」(下川氏)
その活力は、令和の時代に生きる我々には少しうらやましくもある。
※週刊ポスト2021年1月15・22日号