今でこそ女性の医師は珍しくないが、それが当たり前になったのも先人の努力があったから。1913年、62年間の激動の生涯を終えた荻野吟子は、1885(明治18)年、日本における最初の国家資格を持った女性医師となった人物だ。
吟子は幕末の1851(嘉永4)年、現在の埼玉県熊谷市の名主の家に末娘の五女として生まれる。名字帯刀を許された家で不自由なく育ち、17才のとき、望まれて近くの名主の長男・稲村貫一郎と結婚する。荻野吟子記念館などのガイドボランティアを行うNPO法人「阿うんの会」代表理事の増田哲也さんが話す。
「1度目の結婚後、吟子は夫から淋病をうつされてしまいます。この病気のために、吟子はいまの東大の医学部にあたる大学東校の附属病院で診察を受け、2年ほど入院していました。当時は男尊女卑の時代で、当然ながら、医師はすべて男性。診察のために、若い男性医師に恥ずかしいところを見られるという屈辱に耐えかね、女性医師の必要性を感じて決心したと、吟子の日記に書いてあります」
しかし、当時は「女性に学問はいらない」と考えられていた時代。裕福な家に嫁ぐことこそが女性の最大の幸福とされていた。
「当時の人からすれば、医師は男性だけに許された職業です。それを目指すという吟子に、父や兄はいい顔をしなかったようですが、母親だけは賛成した。幼い頃から優秀だった吟子が、玉の輿の結婚にやぶれて帰ってきているわけですから、母は同じ女性として、背中を押す以外にはなかったのではないでしょうか」(増田さん・以下同)
吟子の優秀さを物語る逸話が残っている。当時の名主は、塾から家庭教師を呼び、自宅で自分の子供を教育していた。『江戸繁昌記』で知られる儒学者の寺門静軒が、吟子の兄に漢学や漢詩を教えていたところ、まだ幼かった吟子は、隣の部屋で聞いていただけなのに、兄よりも早く漢詩を覚えてしまったそうだ。
やがて東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として首席で卒業した吟子は、上野の医療系私塾・好寿院の聴講生となる。
「女性が正式な学生になることは認められず、聴講生という身分だったようです。同級生の男性から“なぜこんなところに女性がいるんだ”などとからかいを受けることもあったことは想像がつきます。それを避けるためか、吟子は男性の格好をし、常にいちばん早く学校に着き、いちばん前の席に座って学んでいました」