1967年に「ザ・タイガース」のメンバーとしてデビューし、1970年代以降はソロシンガーとして日本歌謡界をリードした永遠のスター、「ジュリー」こと沢田研二。今回は「ジュリーひと筋50年以上」というファンで、『沢田研二大研究』(青弓社)の著書がある國府田公子さんに、貴重な“お宝”を公開していただくとともに、ジュリーの魅力を語ってもらいました。
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ジュリーを好きになったのは「ザ・タイガース」時代から。中学1年生のときにテレビ番組で『シーサイド・バウンド』を歌っている姿を見て、「なんてかっこいい、素敵な人なんだ」と、ただただ魅せられて、そこからジュリーひと筋。それこそ、ジュリーが載っている週刊誌はすべて買って、その部分を切り抜いて部屋中に貼っていました。
ファンクラブの会報
ファンになってから2年半ほどが過ぎた高校1年生のある日、とある雑誌で、JFC(ジュリー・ファン・クラブ)を知りました。JFCからミニコミ誌『JFC』が年に数回出るのですが、ファンたちがそこにジュリーに対する思いを書いていました。
1960~1970年代、ジュリーは東京・銀座のジャズ喫茶でも歌っていたのですが、そこで『JFC』が渡され、ジュリー本人が読むんです。『JFC』にメッセージを投稿すれば、ジュリーが読んでくれる!と思うと、胸が高まり、ラブレターを書くような気持ちで、新曲の感想やジュリーの魅力を懸命に綴ったことを覚えています。
ジュリー直筆の感謝状
その後、「沢田研二ファンクラブ」が発足しました。広島・山口支部もできて、そこの活動に参加するようになりました。この支部にも『LIBERTTY(リバティ)』という名の会報があり、ジュリーの活動報告やコンサートの感想などを私たちが手書きで寄せていました。
「ザ・タイガース」デビューから10年目、ジュリーから支部あてに直筆メッセージが届きました。これはコピーですが、「澤田研弐」とある。澤田はジュリーの本名の綴りですが、「弐」はなんだったんでしょうね。当時のジュリーのこだわりかもしれませんね。
そうそう、ジュリーは、自分のファンがただ「かっこいい~、素敵~」などと、通り一遍の感想や上辺だけの言葉を言うだけでは喜ばないんです。「あそこの演出がいまひとつだった」「こうした方がいいかもしれない」というような、作品やステージに関する率直な意見や感想、それもちょっと厳しいことを言うと喜んでくださるんです。
きっと、“ここまで自分のことを見てくれているんだ”と、ファンを信頼してくださっているんだろうと想像していました。だから私も、ただほめちぎるだけじゃなく、改善してほしいところ(と言うと偉そうですが)、楽曲やステージに正対した意見や感想をきちんと書くようにしていました。