江戸時代から明治のはじめにかけて、現在の東京都文京区根津に、吉原にも負けない遊郭が栄えたことをご存じだろうか。今は閑静な文教地区だが、当時は「不寝(ねず)」とも称された夜の社交場だった。『週刊ポスト』(2月1日発売号)では、「東京帝国大学『M検』の記録」と題して、昭和31年(1956年)まで行われていた「M検」の興味深い記録を報じている。「M検」が何かは後述するが、そこでも紹介された当時のエリート大学生たちの「夜の勉強」について詳しくお伝えしよう。
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根津遊郭は、今も東京大学(当時は東京帝国大学)のキャンパスがある文京区本郷のすぐ北側にあった。江戸時代から続く遊郭だったが、全国から集まった若きエリート学生たちが、その誘惑に勝てるはずがなかった。東大が開学してからは、学生たちが夜な夜な通って遊郭は隆盛を極めたという。風俗史家の下川耿史氏が語る。
「根津遊郭は根津神社に続く通りにありました。すぐ南は東大のキャンパスですから、全国から集まったエリート学生たちが通ったのは当然です。しかし、当時の東大は全国から名士の子息が集まる日本一の学府ですから、国を背負って立つ金の卵たちが遊郭で放蕩三昧では、日本の近代化を急ぐという国家戦略にも大きな障害になります。
そのため、明治20年(1887年)には根津遊郭は廃止、移転されます。吉原に移る茶屋もありましたが、大半は洲崎(現在の東京都江東区東陽町)の埋立地に移転させられました。ここは戦後復興期には『洲崎パラダイス』と呼ばれ、吉原と並ぶ赤線地帯として栄えました」
東大の開学は1877年だから、学生たちがキャンパスに隣接した遊郭に入り浸って遊んだのは最初の10年だけということになる。200年近い歴史のあった遊郭としては、そのせいで移転させられて、むしろ迷惑千万な話だったのかもしれない。
根津遊郭ができたのは江戸時代前期の1706年、根津神社の社殿造営が端緒とされる。工事に従事した大工や左官職人たちを相手にする居酒屋ができ、自然と売春が行われるようになった。1842年には近くに幕府公認の吉原遊郭ができたことで、根津遊郭は何度も取り締まりを受けたが、しぶとく生き残り、明治まで賑わったのだという。