先発完投が当たり前だった昭和のプロ野球では、投手がリリーフの役割を与えられることは「降格」と考えられていた。その潮目を変えたのは、江夏豊の存在だった。阪神のエースだった江夏は、南海にトレードされた後に野村克也兼任監督に口説かれ、抑えに転向。その後、移籍先の広島、日本ハムに栄冠をもたらし、セパ両リーグでMVPに輝いた。江夏は1983年からの2年間7800万円(推定。以下同)で、球界最高年俸の地位に座った。
優勝請負人と呼ばれた男の活躍で、リリーフの役目は徐々に見直されていった。しかし、抑えより前の回を任される中継ぎは低く評価されたままだった。野球担当記者が振り返る。
「落合博満が中日の提示額を不服として調停にかけた30年前の1991年、球界の年俸ベスト20入りしたリリーフ投手は郭源治(中日)のみでした。1992年も郭のみ(1億円・6位タイ)で、前年の日本一である西武の鹿取義隆が8200万円で22位、セ・リーグ覇者の広島の大野豊が7500万円で27位。当時は今以上に打者のほうが稼いでいる時代で、ベストテンの中に投手は郭と桑田真澄(巨人)の2人しかいません」(以下同)
完投数を見ると、2020年はセ・リーグが36、パ・リーグが19しかない。一方、1991年のセは200、パは234に上っている。当時、リリーフが年俸ランキングで上位に入らなくても仕方なかった側面もあるかもしれない。1990年代半ばになると中継ぎの出番が多くなり、1996年に中継ぎ投手の賞が新設された。
「中継ぎを表彰しようという案がシーズン中の7月に出ました。しかし、セパの足並みが揃わず、セは『最優秀リリーフポイント投手賞』で河野博文(巨人)、パは『最多ホールド投手賞』で島崎毅(日本ハム)が受賞しました。名称が違うことからもわかるように、両リーグで評価方法が異なった。しかも、セは連盟表彰ではなく特別表彰で、賞品は100万円相当のパリ・ペア旅行。中途半端な印象が拭えませんでした」
1998年、中継ぎの台頭がクローズアップされる。横浜の抑えの佐々木主浩が防御率0.64とほぼ完璧な投球を見せて45セーブでMVPに。9回に繋ぐ島田直也、阿波野秀幸、横山道哉、関口伊織、五十嵐英樹など中継ぎ陣が貴重な役割を果たし、チームは38年ぶりの日本一に輝いた。わずか8完投での優勝は、完投至上主義のプロ野球界に衝撃を与えた。