プロ野球春季キャンプは異例の無観客で行われ、厳しい練習に選手が顔をしかめる“球春の風物詩”を現地で見ることはできないが、球史には伝説として語り継がれるキャンプが存在する。元巨人・篠塚和典が、1979年秋季の「伊東キャンプ」について振り返った。
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時は1979年10月、第1次長嶋政権下にあった巨人は、この年のシーズンを5位で終えた。V9達成から6年が経過し、V9戦士が続々と花道を飾っていく一方で、若手が思ったように育っていない──長嶋は将来のジャイアンツを案じていた。
そこで、江川卓や西本聖の投手陣、中畑清や篠塚和典(当時は利夫)ら野手陣、総勢18名の精鋭を集め、43年ぶりとなる秋季キャンプを静岡県伊東市で実施する。10月28日から翌月の22日まで、ほとんど休みなく猛特訓が続いた地獄の伊東キャンプである。
篠塚は初日の朝、長嶋が18人を前に訓示を述べ、胸を熱くしたことを覚えている。
「王(貞治)さんは翌年に引退するんですが、低迷している現状と、未来のジャイアンツを考えた時に、僕ら若手のことを誰よりミスターは心配していた。『ここにいるメンバーがこれからのジャイアンツを引っ張っていくんだ』と言われてね。何度もキャンプは経験したけど、ああいう檄を初日にもらった記憶は他にありません」
篠塚は1975年のドラフトで巨人に入団。長嶋が周囲の反対を押し切って1位指名し、獲得した選手だった。だが、4年目となるシーズンも、1軍と2軍を行ったり来たり。レギュラーには遠く、ポジションも定まっていなかった。
「入団の経緯を入団後に知って、ミスターに恥をかかせられないという一心でした」
キャンプ中は伊東スタジアムの三塁側に建つ宿舎で寝泊まりし、練習は朝9時半から日が暮れるまで行われた。それまで遊撃や三塁のポジションに就くことが多かった篠塚は、このキャンプではとりわけ二塁に入ってノックを受け、それが毎日1時間半から2時間は続いた。
「特守というのは、体力を鍛えながら、球際の強さといった捕球の技術を磨く。長い時間ノックを受けて、身体が疲れた時にどれだけボールを追いかけて、捕れるか。三塁や遊撃のポジションに就くこともあったし、外野に入って(レフトとライトの間を走りながら捕球させる)アメリカンノックなんかもやったりした。そりゃあ守る方もしんどいけど、打つ方も同じように大変だったと思うよ」