昨年、セ・リーグ3位になり8年ぶりのAクラス入を果たした中日ドラゴンズ。10年ぶりの優勝を狙う今年は、先発には沢村賞の大野雄大、中継ぎには昨年の最優秀中継ぎ投手である祖父江大輔、福敬登、抑えには昨年リーグ2位の21セーブを挙げたマルティネスが座り、投手陣各ポジションの柱は2連覇中の巨人に決して劣っていない。
中日の球団史を紐解くと、リリーフ陣の充実が目立つ。セーブという記録が新設された1974年、星野仙一が初代のセーブ王に。チームは巨人のV10を阻止し、20年ぶりの優勝を果たした。翌年からは鈴木孝政が抑えを務め、セーブ王を獲得。『最優秀救援投手』に名称の変わった1976年、1977年も鈴木が受賞。4年連続で中日の抑え投手が賞に輝いた。その後も牛島和彦、郭源治、宣銅烈、岩瀬仁紀などリーグを代表するクローザーを生んでいる。プロ野球担当記者が話す。
「中日のリリーフ投手の起源を辿ると、近藤貞雄という指導者の存在が大きい。1リーグ時代から巨人や中日で主に投手として活躍し、1954年に引退して翌年から中日の投手コーチになった近藤は1960年代に『投手分業制』を提唱した。当時は先発投手が翌日リリーフとして連投することも珍しくない時代で、中日も同じような起用法でした。1961年、新人の権藤博は69試合、32完投、35勝、翌年は61試合、23完投、30勝とフル回転。結果、無理が祟ったのか後に肩を壊し、権藤の投手生命は短くなってしまった。投手起用の権限は監督にあったようですが、近藤はその反省を生かし、日本でも初期にリリーフ投手を確立させました」(以下同)
日本初の抑えは“8時半の男”こと宮田征典(巨人)と伝えられている。セーブという記録のない当時、救援登板して試合終了まで投げた場合に記される『交代完了』がクローザーの指標になる。川上哲治監督3年目の1963年、宮田は47試合でリーグ最多の25完了。V9の始まった翌々年には69試合で46完了を挙げ、20勝のうち19勝をリリーフで稼いだ。
「この時代、中日では板東英二が守護神を務めました。完了数は1964年から20、29、40、35と4年連続で20以上を記録し、1967年からは2年連続でリーグ最多です。板東は高校時代に甲子園で投げ過ぎたこともあり、入団した頃から右ひじを痛めていた。近藤コーチは『先発完投は無理だが、リリーフなら使える』と考え、目立ちたがり屋の性格も見抜いた上で、抑えに抜擢しました。中日の元祖・守護神は板東と言っていいでしょう」