放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、『笑点』(日本テレビ系)の大喜利に1983年からレギュラーとして出演している落語家の三遊亭小遊三について綴る。
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国民的番組などと呼ばれる『笑点』の陽気なドロボーキャラ。自らを「アラン・ドロン」と言っているが、いかんせん古い二枚目だ。三遊亭小遊三、本名を天野幸夫という曲者。何しろ軽くて洒脱な生き方。「のれんに腕押し」的で「糠に釘」チックな人生(よく分からない)。同世代なのでつきあいもやたら古い。
1970年代後半、世にも出ず、くすぶっていたビートたけしと私は、よく新宿でも呑んでいた。私はいつも夜電話で小遊三と米助を呼び出し、毎夜愚痴のように「どうやったら売れるのかねぇ」「○○なんて面白くねぇのに何で売れてんだ」。あまりいい酒ではない。
まだ「世界の」でもなく、「笑点の」でもなく、「隣の晩ごはん」でも「センセ」でも何者でもなかった、夜明け前のほんの数年の話だ。
1980年になると“漫才ブーム”がやってきて、ビート君は時代の寵児(ちなみにビートの新刊は『弔辞』だ。ここで宣伝を入れときゃあの人も喜ぶだろう)。私も少し忙しくなり、深夜に『らくごin六本木』という番組を企画し構成・司会。そこから飛び出したのが小遊三・米助。
私の全面バックアップ、圧倒的な裏工作で1983年には小遊三が抜擢の真打昇進。スポーツマンだし明るいしだしで「落語低迷の時代」(落語ブームなぞこのずっとあと)にもかかわらず脚光を浴び、私が作るバラエティでは、まだ世に出る前の西の明石家さんまの野球形態模写(小林繁)に対抗して、東の小遊三「ヤクルト安田の投球フォーム」、「江川卓のランニング」などでバカうけであった。
東京五輪では聖火ランナー、そして明大卓球部。抜群の運動神経で落語界も泳ぎまわり“落語芸術協会”では歌丸会長、小遊三副会長の時代が長く続き、歌丸亡きあとはてっきりそのまま小遊三が会長に昇りつめるのかと思いきや、出世欲はなく性欲だけはある男。スッと昇太に会長の座をゆずり、当人は楽隠居をきめ込んだ。