【著者インタビュー】森功氏/『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』/幻冬舎/1800円+税
〈貴作拝見、没〉ハガキ1つでダメを出し、大作家からも大いに畏れられた〈新潮社の天皇〉齋藤十一。本邦初の写真週刊誌『FOCUS』創刊時の発言とされる〈人殺しの顔を見たくないか〉など、数々の伝説を伝説のままにしないのが、森功『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』の基本姿勢だ。森氏自身、1991~2002年まで『週刊新潮』に在籍し、1956年の創刊以来、同誌に実質的に君臨し続けた齋藤の姿を〈何度か目撃〉したとある。
「それこそ〈御前会議〉で直接話ができるのは一部の幹部だけ。我々は怖いと思う機会すらないくらい、遠い存在でしたけどね。より正確には齋藤さんのことを怖がる人たちを間近に見てきた、そういう距離感です」(森氏・以下同)
戦後まもなく『新潮』を軌道に乗せ、『芸術新潮』や『週刊新潮』、『FOCUS』『新潮45』の生みの親でもあった鬼才は、なぜ自らを〈俗物〉と称したのか――。森氏は太宰治に坂口安吾に三島由紀夫、松本清張や柴田錬三郎や池波正太郎等々、手がけた作家の顔ぶれがそのまま文学史と化す彼の日常や原風景から、まずはひもといていく。
1914(大正3)年2月、北海道忍路郡塩谷村(現在の小樽市)に生まれ、3歳の時に父の転勤で上京、大森で育った齋藤は、私立麻布中を経て海軍兵学校を受験するも惨敗。紆余曲折あって早大理工学部に進み、この間に友人の影響で文学に目覚めた。森氏はカントやプラトンやヘーゲル、西田幾多郎や三木清の名著大著を行李一杯に詰め込み、千葉の漁村で読書三昧に耽った〈早大時代の家出〉が、稀代の名編集者の起点かもしれないと書く。
「齋藤さんは編集部で〈パイプ〉と暗に呼ばれていたんですが、特集が6本あると必ず1本はパイプ由来のものがあって、見出しも6本全部彼が決めていた。しかも本人は現場に出るでもなく、指示だけが編集長経由で降りてくるわけです。あの医師は絶対怪しい、調べてみろ、とかね(1968年「和田寿郎心臓移植事件」)。
つまり編集長の上に真の編集長がいて、その天の声で現場が動くという異様といえば異様な体制です。でも、その直感がことごとく当たるんです。〈本来、齋藤さんから出るスクープ記事はありえない〉はずなんですが、それこそ、〈目の付けどころがいいというか〉、本当に謎でした」