2021年9月8日、約3年間の大腸がん闘病の末、亡くなった遠藤和(のどか)さん(享年24) 。彼女が1才の娘のために綴った日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』が多くの読者の心を捉えている。自らもがんで妻を亡くした経験があるがん専門医で、現在は日本対がん協会会長を務める垣添忠生さんに話を聞いた。(前編より続く)
遠藤和さんは青森県出身。21才で大腸がんのステージⅣであると宣告を受けた。22才で、かねてから交際していた将一さんと結婚式を挙げた。その様子が『1億人の大質問!? 笑ってコラえて!』(日本テレビ系)の「結婚式の旅」コーナーに取り上げられ、全国の多くの人の感動を集めた。その後、まもなく妊娠して23才で娘を出産。和さんは、未来の娘に自分の姿を伝えるため、日記を書き続けていた。
日本対がん協会会長を務める垣添忠生さんは、2007年12月31日に妻の昭子さんを肺の小細胞がんで亡くした経験がある。それから3か月、垣添さんは「死ねないから生きている」状態だったという。
「当たり前のことですが、亡くなって、死後硬直で硬くなって、灰になって帰ってきたら、もう一切の会話ができない。覚悟はしていましたが、あれが本当につらかったですね。闘病中は、会話もできたし、体も温かかったので……。見慣れたセーターやマフラー、靴を見ると涙がとめどなく溢れてくる状態でした。寝つくこともできず、毎晩、眠るために酒浸りになってしまいました」
どん底の日々を過ごしていた垣添さん。立ち直るひとつのきっかけになったのは、僧侶からの勧めだった。
「知り合いの住職から、故人が亡くなったということを得心するためにと、百日法要を勧められました。やることに決めて、親戚も集めることになった。そのときに、自分がこんな酒浸りで、ひたすら泣いて過ごしているのはまずいと初めて思ったんです。そこで、腕立て伏せとか、腹筋とかの運動を少しずつ始めて、体調が少し良くなってきました」
昭子さんの死後、垣添さんは何を食べても砂を噛むようにしか感じなくなったという。しかし、1年後の正月には、おせち料理の味がわかるようになった。例年2人で観ていた箱根駅伝も、どうにか観戦できるようになった。そのころ、垣添さんは昭子さんとの思い出をノートに書くことを始めた。この記録は、のちに『妻を看取る日―国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録―』(新潮社刊)として出版された。
「写真や手帳のメモを見ながら、妻との思い出をひたすら書き記しました。書くことは、私にとって、悲しみを吐き出し、前に進むために必要な行為でした。いま振り返ると、自分の心の深い部分を見つめるきっかけになったとも思います。和さんも、日記を『書く』という行為で救われていた部分があったのではないでしょうか」
昭子さんを亡くして、2021年12月で14年になる。垣添さんはいまも亡き妻への挨拶を欠かさない。
「自宅に小さな祭壇を作り、朝には『行ってくるよ』と言って出かけ、帰ってきたら線香を立てて1分くらい挨拶するということを続けています。手帳の中には妻の写真を入れていて、大事な講演の時などは『守ってくれよ』と胸元を叩くことが習慣になりました。亡くなった直後は、1日に何万回も対話していましたが、今は1日1000回とか数百回とかですかね、だいぶ減りました。時間とともに少しずつ薄れてはきましたが、この悲しみは永遠に消えないと思います」
和さんの夫・将一さんも、垣添さんと同じく「妻を看取る」という経験をしたひとりだ。