映画『花束みたいな恋をした』(1月29日公開)のヒットが続いている。「傑作」との呼び声も高い同作の魅力について、映像作品に造詣が深い小説家・榎本憲男氏が考察する(*本記事は作品のネタバレを含みます。記事の後半で映画の内容に触れていますのでご注意ください)。
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菅田将暉と有村架純が出演する『花束みたいな恋をした』(脚本:坂元裕二 監督:土井裕泰)が爆発的なヒットを記録し、なおも快進撃を続けている。業界が驚いているのは、この大ヒットが、インディペンデントの制作会社が企画し、大手ではない配給会社によって達成されたという点だ。さらに、すでに成功した漫画や小説の原作によるものではなく、オリジナル脚本による恋愛映画であることも注目を集めている。
同じ興行収入に到達したとしても、「順当にヒットするべくしてヒットした」や「ノーマークだったがヒットした」や「まさかここまでとは思いもよらなかった大ヒット」のようにさまざまである。『花束みたいな恋をした』は3番目の典型だろう。
「ノーマーク——」「まさかここまで——」のようなヒットが出ると、業界やマスコミは「なぜ」を分析し始める。ただ、オリジナル脚本による本作には、原作の人気という原動力は見いだせない。さらに有村架純と菅田将暉というキャスティングによる動員もここまでのヒットの説明にはならない。
僕の周辺でこの映画を見た若者の感想は「リアル」で「刺さる」につきる。「刺さる」という言葉は、僕の若い友人がネットでつぶやいた言葉からいただいた。彼は本作を「ここ10年で見た映画のベストワン」と絶賛し「自分たちが生きてきた時代の空気感や匂いが初めて映画になった気がする」とまで言っている。
ポップスのような同時代性がこの映画にはあるのだろう。映画の中で有村架純が歌ったきのこ帝国の「クロノスタシス」のYouTube上のPVのコメント欄は、映画に関連した投稿がずらりと並んでいる。さらにTwitter上で「カップルで見に行かないほうがいい」という評判が湧いたのも、「リアル」で「刺さる」からこそであろう。
『花束みたいな恋をした』は“時を超えてめぐりあう”などのファンタジーでなく、“また不治の病を患う”などの“飛び道具”を用いた悲恋でもない、本作では、都市に暮らす平凡な若者の、彼らの周辺にいくらでも見いだせるリアルな恋愛模様が展開される。僕はこの作品のヒットを「リアルさ」と刺さり具合の「深さ」に見る。リアルであるからこそ刺さる。リアルであるからこそ、その刺さり具合は深い。そして、このリアルさに日本社会の暗い影が色濃く射している気がするのである。