「親族間で、芳雄さんと志のぶさんを施設に任せてはどうかという話も持ち上がったんです。でも、政子さん夫婦は両親のことを考えると受け入れられなかったんでしょう。芳雄さんも志のぶさんも、デイサービスに行くたびに『行きたくない、家にいたい』と言っていたほどでしたから。政子さんとしてもその希望を叶えてあげたいという思いがあったのでしょう」(前出・近隣住民)
朝4時に起き、洗濯機を回し、朝食の準備を済ませて6時に出社。会社の掃除や従業員のお茶を準備した後、いったん帰宅し、洗いあがった洗濯物を持ってコインランドリーへ。乾燥機で乾かしている間に、自宅に戻って芳雄さんや志のぶさんの食事の介助や投薬、そしてオムツの交換。
その後、太喜雄さんを車に乗せて再び出社し、会社の事務仕事をこなした後に昼前に再度帰宅。昼食の準備、食事の介助を行ってからまた会社へ。夕方に帰宅し、夕食や入浴の準備と介助に追われ、入浴後は4種類の薬の塗布。夜11時頃、ようやくソファで横になっても、夜中に何度も起こされ、熟睡できることはなかった。食事も家族それぞれの体調に応じた3種類を作り分けていたという。
介護が始まった当初、政子被告はまだ60代。同年代には、仕事と子育てから解放されて「わが世の春」とばかりに旅行を楽しんだり、趣味に没頭したりする女性も多い。しかし、政子被告には旅行どころか束の間の息抜きの時間すらなかったのだ。
「でも、家族が手を差し伸べなかったわけではないんです。娘さんが介護を手伝う頻度を増やそうかと提案しても、『あなたにも家族がある』と迷惑をかけることが心苦しくて断っていたようです。また、太喜雄さんには3人の弟がいて、そのお嫁さんたちも買い物などを手伝ってくれていたのですが、介護は長男夫妻である自分たちの仕事なのだという、強い責任感が政子さんにはあったんです」(前出・近隣住民)
集落の人は政子被告を「まじめで、何でもできる人」とも評する。能力が高かったからこそ、第三者に頼らずともひとりでなんとかこなせてしまった──結果的に、それが悲劇を生んだ要因の1つでもあった。
政子被告は愚痴をこぼすことも一切なかった。それもまた、彼女がどれだけ追い詰められていたのか周囲が気づけなかった一因かもしれない。だが、事件の半年ほど前、政子被告の身に異変が起きていた。