首都直下地震や南海トラフ地震など、いつ巨大地震が起きてもおかしくないと言われる日本列島。だからこそ、被害を最小限にするべく、東日本大震災での経験を活かし、備えておかなければならない。
東日本大震災での陸前高田市の死者・行方不明者は約1800人で、全世帯の約半数が被災した。地震発生から津波到達までの約40分間を改めて振り返り、教訓を心に刻みたい。
あの日もいつもと変わらず、脇の沢港を出港し、かき筏に向かっていたというのは、防災士の佐藤一男さん。佐藤さんの被災時の状況は以下の通りだ、
●被災時の状況
<住居>
脇の沢港から徒歩で5分ほどの場所に建つ戸建て。津波で全壊。
<被災場所>
仕事中のため海上。スクリューにロープを巻き込んだような衝撃を受けた。
<家族構成>
両親、妻、長女(当時小学1年生)、次女(当時保育園)、長男(当時1才)。
「私は船で海上を移動していたのですが、いつもの波とは違う激しい揺れを感じました。陸を見ると、土砂崩れが起こり、土ぼこりが上がっているのが見えて……。ポケットの中の携帯電話は緊急地震速報が鳴りっぱなし。揺れの規模も長さも経験にないもので、“これはただごとではない”と直感。すぐに港に引き返しました」(佐藤さん・以下同)
このとき、佐藤さんの脳裏に浮かんだのは、亡くなった祖父の言葉だったという。
「明治生まれの祖父は、1933年の昭和三陸地震と1960年のチリ地震津波を体験していました。現在自宅のある場所は、過去に2度被害に遭っています。そのため子供の頃から、“地震が起きたらテレビやラジオを聞いている暇はない。まずは逃げろ。他人の倍逃げろ。逃げることを笑うやつの言葉は聞くな”と、何度も言われてきました。この揺れなら津波も来ると確信し、みんなに逃げるよう伝えなければと思いました」
5分ほどで港に着くと自宅へ。妻と長男は2階にいた。
「妻は私を見るなり“16時から皮膚科の予約をしているんだけど、どうしよう”とのんきに言うのです。私は、“それどころじゃない。危険だからすぐに出るぞ”と伝え、2人の娘を手分けして迎えに行き、高台にある叔父の家で落ち合うことにしました」
家族を叔父の家に避難させてから、佐藤さんだけ自宅に戻ることにした。
いまも忘れられない防波堤の上の船
「津波の危険性がある場所に戻る。これは絶対にやってはいけない行動ですが、私は消防団に所属していたので、津波注意報が発表された場合、高齢者の家を訪ね、避難の確認をすることになっていたんです。この時点で地震発生から30分が経過。津波がいつ来るかわからない状況でした」