お笑いの歴史を振り返る表現として、昨今は「第○世代」という言い方が浸透している。しかし、ピン芸に焦点を当てて歴史が振り返られることは少ない。ピン芸人はどんな流行の変遷を辿ってきたのか──お笑い評論家のラリー遠田氏がレポートする。
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「ピン芸」の定義は曖昧だ。日本ではもともと一人で演じる落語、講談、浪曲などの話芸の伝統があった。
それらに当てはまらないものを「ピン芸」と考えるとすると、そのルーツと言えるのは立ってしゃべる形の漫談だろう。「形態模写」「声帯模写」と呼ばれたモノマネ芸も広い意味ではここに含められる。戦前から徳川夢声、柳家三亀松、江戸家猫八などが漫談家として活動していた。
戦後も、医療漫談のケーシー高峰、ウクレレ漫談の牧伸二、「わかるかな、わかんねえだろうな」のフレーズで知られる松鶴家千とせなど、さまざまなタイプの漫談家が人気を博した。
伝統的な漫談とは一線を画す現代的なピン芸の先駆けとなったのはタモリである。彼は芸人としての下積みを経験することなく、赤塚不二夫、山下洋輔ら当時の文化人にその才能を見いだされ、インチキ外国語などの密室芸で注目された。『笑っていいとも!』が始まるとお茶の間の人気者になった。
タモリの登場以降、単なる漫談やモノマネではない「その他」のジャンルとしてのピン芸が徐々に脚光を浴びるようになった。
1990年代に入り、若手お笑いブームで芸人の数が爆発的に増えると、もともと組んでいたコンビを解散してピン芸人に転身する人も出てきた。有吉弘行、劇団ひとり、バカリズム、土田晃之など、現在ピン芸人としてテレビで活躍している芸人の多くはコンビ経験者である。
2000年代には『エンタの神様』『爆笑レッドカーペット』などのネタ番組が人気になり、そこから多くのピン芸人が輩出された。
2002年にはピン芸の大会『R-1ぐらんぷり』も始まる。最初は大阪ローカルの地味な番組だったが、全国ネットになってからは世間の注目度も上がり、ここからブレークする芸人も出てきた。
2020年には、ピン芸人同士の即席ユニットであるおいでやすこがが、漫才の大会『M-1グランプリ』で準優勝するという快挙を達成。ピン芸人の底力を見せつけた。
※週刊ポスト2021年4月2日号