「志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎で死去」というショッキングなニュースが流れたのは、2020年3月29日。間もなく1年が経とうとしています。
7年間にわたって志村さんの付き人兼運転手を務め、現在は地元の鹿児島県を中心にタレントやレポーターとして活躍している乾き亭げそ太郎さん(50)。彼が師匠との日々や熱い想いを綴った本『我が師・志村けん 僕が「笑いの王様」から学んだこと』(集英社インターナショナル)が先月出版され、話題を呼んでいます。師匠を亡くして1年が経った今、何を思うのか。げそ太郎さんに聞きました。
「じつは、まだ志村さんが亡くなったという実感がないんですよね。毎朝、グラスに焼酎を注いで、遺影の前にお供えしています。それは『おはようございます』という挨拶みたいなものかな。ここ5、6年は年に1、2度お会いするペースだったので、楽屋を訪ねていったら、またはにかんだ表情で『おう』と言ってくれそうな気がして。ただ、コントは笑って見られるんですが、トーク番組の志村さんはまだ見ることができません」
げそ太郎さんが志村けんさんの付き人になったのは、1994年のことです。子どものころからザ・ドリフターズの大ファンで、芸人になるために家出をして東京で暮らしていた23歳のハゼキシンイチ(本名)青年。「どうしても志村さんの弟子になりたい」と決意し、アポなしで所属事務所を訪ねました。たまたま募集していた運転手に応募して採用され、志村けんさんと365日いっしょいる生活が始まります。
「自由になる時間はほとんどありませんでしたけど、ぜんぜんつらくはなかったです。憧れの人のそばに入られて、お世話ができる。『おい、信一、あれどうなった』なんて頼りにしてもらえる。毎日、楽しくて仕方ありませんでした」
上島竜兵さんに叱られた
テレビで見る「志村けん」とは違う一面や、人となりが伺えるやり取りなど、本書には元付き人だからこそ書けるエピソードが満載です。志村さんが亡くなった直後、げそ太郎さんはいくつかあった取材依頼を最初は断わっていました。
「そのことをダチョウ倶楽部の上島竜兵さんに話したら、叱られたんです。師匠がお前にくれた仕事なんだから受けなきゃダメだって。本を書かないかというお話も、最初は躊躇しました。でも、志村さんとのことを話したインタビューがネットで話題になり、志村さんについて知りたがっているファンの方が、こんなにもたくさんいるんだと感じたんです。僕で役に立てるならと思って書かせてもらいました。本が出てから、たくさんの人に『志村さんって、やっぱりすごい人だね』『こんなに努力家だったとは知らなかった』なんて言ってもらって、出してよかったなと思ってます」
付き人になって3年がたった頃、げそ太郎さんは目標だったお笑い芸人への道に進もうと、志村さんに「そろそろ付き人をあがらせていただきたいのですが」と切り出します。ところが、志村さんから返って来たのは「ダメだ」という意外な言葉でした。
「志村さんに『お前は今まで芸人になるために何をやった?』と聞かれました。返す言葉がありません。志村さんのお世話をするのが仕事だと思って、そこで満足していたんです。心の中に『時間ができたらちゃんとやろう』という甘えがあったんですよね。志村さんはそこを見抜いていました。『俺のところにいて何もしていないヤツが、俺から離れて何かをやれるわけがない』と。そのとおりですよね」