常に激しい駆け引きが展開されている政治の世界。令和のいまよりも、もっと激しい派閥抗争が繰り返されていたのが、昭和の政界だ。なかでも、もっとも熾烈を極めたのが「角福戦争」である。
尋常小学校卒で党人派として成り上がった田中角栄と、東京帝大から大蔵省に進んだエリート官僚出身の福田赳夫の対立は、それぞれの支持者を巻き込み、いつしか単なる政争を超えた「階級闘争」の色合いを帯びていった。
2人の対立のきっかけとなったのが、7年8か月という長期政権となった佐藤栄作首相の後継争いだった。佐藤は自派(佐藤派)の番頭として政権を支えてきた田中ではなく、福田への禅譲を画策。鉄道省出身であった佐藤は、同じ官僚派で兄・岸信介の派閥を継いだ福田に肩入れしていた。
だが、田中は水面下で多数派工作を行ない、1972年の総裁選で福田を下し、総理の座に就く。
その後も幾度となく政争を繰り広げる2人だが、政治家としてはお互いを認め合っていた。双方に仕えた藤井裕久・元財務大臣が証言する。
「私は大蔵省出身で、福田さんが大蔵大臣時代に主計官を務めていました。また、田中内閣で官房長官秘書官を務め、そのご縁で田中派の政治家となりました。
田中さんが総理に就任したとき、福田さんが官邸に来るから『場所をつくれ』と指示がありました。田中さんとしては、対立を引きずらないためにもちゃんと福田さんをお招きしたいということでした。
そうした調整役は本来、官房長官が担うものですが、当時の官房長官だった二階堂(進)さんは、“趣味・田中角栄”という人で、福田批判の急先鋒でしたから頼みづらい。だから私に命じたんだと思います。
それで私が『丸テーブルにしましょう』とご提案したら『それがいい!』とおっしゃった。角のあるテーブルでは対決感が出てしまうので、より柔和な空気を出したかった。田中さんは『仲良くしとかにゃいかん』とおっしゃっていましたし、いらした福田さんも、まず『おめでとう』とおっしゃっていました。
その後、第二次田中内閣で愛知揆一・大蔵大臣が急死された際には、田中さんは間髪入れず(2日後)、誰にも相談せずに福田さんを後任に指名しました。当時は石油ショックという有事で、大蔵大臣を任せられるのは福田さんしかいないと考えた。田中さんは、それだけ福田さんの手腕を高く評価していたということです」