そして、やってきた-TOKYO 2020──。
新型コロナウイルスの蔓延で、彼にとってはまたもやアンラッキーな結果になりかねなかったが、1年延びてなんとか聖火リレー当日を迎えられた。谷津氏にとって、2度目のオリンピック……。
良くも悪くも運命を変えた“呪縛”からの脱却。これが、聖火ランナーに応募して「義足」で走ろうと決心した理由だった。
「悔しさに決着をつけるためにも、そして障害者として次のステップに進むためにも、どうしても走っておきたかったんですよ」
私が谷津氏を初めて取材したのは1980年のことである。当時、私は、プロレス転向を決めた谷津氏を取材すべく、群馬県邑楽郡明和村(現・明和町)の実家を訪問し、一家団らんの写真を撮影した。家族に囲まれた当時24歳の谷津青年には、五輪出場を果たせなかった悔しさを感じさせない明るさがあった。
その後、谷津氏はさまざまなプロレス団体で活躍し、私も写真家として独立。互いの人生を歩んだが交流は続き、アスリートとして生きた彼が右足を失うという憂き目にあった際には、すぐに連絡して励ました、そんな間柄である。
「山本さん、僕はプロレスに向いてなかった。プロレスの世界なんかに入っちゃいけなかったんですよ。でもねえ、本当に大好きなんですよ、レスリングがね」
谷津氏はそういって笑うが、この日も谷津氏と親しい多くのプロレス関係者が聖火ランナー・谷津の雄姿を見届けるべく、遠方から足利市に集結していた。プロレスが、彼の人生をどれだけ豊かにしたかは誰が見ても明白だ。
41年ぶりに、再び谷津氏の実家を訪問した。家は新しく建て替えられていたものの、89歳になるという谷津氏の母は健在で、実に人の良い笑顔で私を迎え入れてくれた。