もし戦ったらどちらが勝つのか……昭和のプロレスファンを熱くさせたのが、“世界の巨人”ジャイアント馬場と“燃える闘魂”アントニオ猪木だ。
2人はともに力道山の弟子となり、1960年9月30日に同日デビュー。力道山の死後、一度は低迷したプロレス人気をタッグチーム“BI砲”によって復活させた。
BI砲全盛期の日本プロレスに入門し、今年デビュー50周年を迎える藤波辰爾が当時の2人の関係を語る。
「僕は猪木さんの付き人をしていましたが、いつも馬場さんを立て、移動でグリーン車に乗るときもいつも猪木さんが手を出してどうぞと馬場さんを先に乗せていた。試合後は2人が真っ先に一緒に風呂に入るんですが、『馬場さん』『寛ちゃん(猪木の本名は寛至)』と呼び合いながら試合を振り返り仲良く話していました」
だが、1972年に猪木は日本プロレスから離脱して新日本プロレスを旗揚げ。同年、馬場も全日本プロレスを旗揚げすると、両団体は興行戦争を繰り広げ、猪木は執拗に馬場を挑発し直接対決を迫った。猪木に従い新日本に移った藤波は、こう見ていた。
「ふだんは猪木さんが馬場さん個人のことを口にすることはなく、ただ『全日本に負けるな』が口癖でした。馬場さんには力道山先生から引き継いだ王道のプロレスの型があり、それへの対抗心から猪木さんは異種格闘技戦などのストロングスタイルに進んでいきました」(同前)
一方の馬場はどうだったか。馬場の付き人を務め、今も全日本に所属する渕正信が語る。
「あるとき馬場さんに『タッグパートナーで組みやすかったのは誰ですか』と聞いたら、まず先輩の吉村道明さんの名前を挙げて、次はてっきり当時タッグを組んでいたジャンボ鶴田かなと思っていたら、『猪木だな』って言うんですよ。
『組むと呼吸が合うんだな。その点、鶴田はまだまだだな』って。馬場さんが鶴田に試合後の控え室で、コブラツイストを掛けているときの表情がなさ過ぎるということで、『猪木のガーって顔あるだろ、あんな感じの悲愴感を出せよ』と言っているのも聞きました。
BI砲が一夜限りの再結成をした1979年のオールスター大会では、控え室で楽しそうにゴルフ談義をしているのを見て、やはり2人にしか分からない世界があるんだなと思いました」