昭和を彩ったスターには、自他ともに認める「好敵手」がいた。1970年代、全国の中高生が「百恵派」と「淳子派」に分かれ、ファンの熱量を競い合っていた。経済評論家の森永卓郎氏も、そのうちの一人だった。
「中学時代は部屋中に淳子さんのポスターを貼っていました。淳子さんは王道の美しさでわれわれ男子を魅了し、百恵さんはどことなく陰りのある感じで主に女性ファンを惹きつけた」
山口を売り出した音楽プロデューサー、酒井政利氏は、「桜田淳子の存在なくして山口百恵のブレイクはあり得なかった」と証言する。
「百恵さんが『スター誕生!』(1972年12月)に出演した時点で、すでに桜田さんは注目の的でした。すでにデビューしていた森昌子さんを含めた『花の中三トリオ』として売り出されたことは、百恵さんにとってラッキーだった。
私の中では、中三トリオは森昌子が大地、桜田淳子が大空、そして山口百恵は大海というイメージを膨らませていた。『青い果実』で“性典ソング”と言われる路線に舵を切ったのも、桜田さんの天真爛漫な明るさを意識したからこそ、その逆を生み出せた。桜田さんがいなければ、百恵さんの中にある陰りを引き出すことはできなかったと思います」
ライバルでありながら、2人は正真正銘の親友だった。山口が芸能活動のため転校したクラスには桜田がいて、お互いを「ジュンペイ」「モモタロー」と呼び合っていた。
「スタジオでも楽しそうにおしゃべりしていました。実は桜田さんと百恵さんは中三トリオの頃、『とてもよく似ている』と言われていたんです。同じ歌番組に出たとき、現場スタッフが桜田さんに『百恵ちゃん』、百恵さんに『淳子ちゃん』と声をかけることがあった。そんなとき、2人はわざと怒った表情をつくって楽しんでいました(笑い)」(同前)