少年マンガならば「強敵」と書いて「とも」と読ませるのは定番だが、戦いに身を置く者にとって、好敵手がいるというのは自分自身を高める動機にもきっかけにもなる。スポーツ界にはあまたの伝説的なライバル関係があったが、「ライバル」とは必ずしも対戦する相手とは限らない。『週刊ポスト』(4月16日発売号)では、昭和を沸かせたライバル関係を特集しているが、そこで取り上げたのが、かつて巨人のエースの座を争った江川卓と西本聖。定岡正二を加えた「三本柱」はONが去った巨人の新時代を支える大黒柱でもあった。
その3人のなかで一番の苦労人だったのが西本だ。甲子園のスターだった江川、定岡に対して、名門・松山商にいながら甲子園に出場できなかった西本。特に定岡とは同学年で、その定岡は鹿児島実業のエースとして甲子園を沸かせ、夏の大会では準々決勝で原辰徳擁する東海大相模を延長15回の死闘の末に下すなど、常に注目の的だった。甘いマスクで女性ファンも多く、元祖・甲子園のアイドルでもあった。
巨人に入団したのも西本はテスト生としてで、同期のドラフト1位が定岡だった。その差を埋めるため、チームメイトから浮いた存在と評されるほど練習に打ち込み、2年目には一軍に昇格して8勝をあげて存在感を示した。
西本の5年目に鳴り物入りで入団してきたのが1学年上の江川だった。作新学園時代は言わずと知れた甲子園の怪物で、法政大では1年からエースとして4連覇を達成。東京六大学記録となる17完封、通算47勝、防御率1.16という記録を引っ提げての巨人入りだった。1年目は、いわゆる「空白の1日」のペナルティで2か月間の出場停止があったにもかかわらず9勝をあげ、翌年から2年連続で最多勝を獲得した。
その間、野球エリート2人に挟まれた西本は、江川もついに獲れなかった沢村賞を獲得するなど、タイトルにこそ縁はなかったがエースとして活躍し続けた(のちに中日に移籍して最多勝、最高勝率のタイトルを獲得)。当時、江川や定岡に対してどんな思いを抱いていたのか、改めて聞いた。
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僕が頑張れたのは江川さんがいたから。江川さんのおかげで成長できたと思います。江川さんが入団する前の新人時代は、同期の定岡がいたから頑張れた。彼は甲子園のスターでドラフト1位。顔だっていい。僕はドラフト外ですからね。(二軍球場の)多摩川に行ったって、定岡の背番号20はみんな知っていても、僕の58は誰かわからない。コーチの扱いも違いましたし、それが発奮材料になったことは間違いありません。
江川さんとは高校2年生の時に栃木まで遠征して練習試合で対戦したことがあるんです。16奪三振で完封負けでした。なにしろボールが浮き上がってくる。こんな球を投げる高校生がいるのかと衝撃でした。正直に言うと、“巨人には来るな!”と思ってましたよ(笑)。ようやくローテをつかみかけた頃でしたから、自分が外れるんじゃないかと不安でしたね。
江川さんは並の投手が頑張ってもできないことができる天才。ご本人は努力してきたと言うでしょうが、僕からすると努力のレベルは僕とは違う。だから、これは自信を持って言えますが、フィールディングとバッティングは僕のほうが上でした。それだけ練習しましたから。