松山英樹(29)がマスターズを制覇し、日本の悲願を達成する遥か前。昭和のゴルフ界を牽引したのは青木功(78)と、ジャンボ尾崎こと尾崎将司(74)だった。切磋琢磨するライバルの存在が、スターをいっそう輝かせた──あの時代の熱気と興奮を振り返る。
名勝負は枚挙に暇がない。1972年8月の「関東プロ」では、青木がプレーオフ2ホール目でイーグルを決め、バーディーの尾崎をねじ伏せた。翌年の「全日空札幌オープン」では、尾崎が最終日に5打差をひっくり返して青木に雪辱した。尾崎が1971年から4年連続賞金王となれば、青木も1976年を皮切りに、1978~1981年と賞金王を獲得。毎週のように優勝争いを繰り広げた。
青木ファミリーのリーダー格で、米ツアーでシード権獲得の実績もある大町昭義プロが言う。
「2人と同じ組で2度回ったことがありますが、ピリピリした緊張感は半端じゃなかった。ジャンボさんは5歳年上の青木さんを“アニキ”と呼んで立てていたが、決して“青木さん”とは呼ばなかった。相当にライバル視していましたね」
尾崎は国内ツアー112勝、青木は56勝。この差は青木が1978年の『ワールドマッチプレー』(英国)優勝以降、海外に主戦場を移したことが大きい。1980年の『全米オープン』ではジャック・ニクラウスと死闘を演じ、1983年の『ハワイアンオープン』では日本人初の米ツアー優勝を飾るなど、海外で4勝を挙げた。
中学卒業後にゴルフ場に就職し、林由郎プロに師事してプロテストに合格した青木は“叩き上げの努力家”、徳島・海南高のエースとしてセンバツ優勝、プロ野球の西鉄からゴルフに転向した尾崎は“圧倒的な飛距離を持つ天才”と評されることが多い。しかし、それは一面的な見方だ。
「青木さんは“長所を伸ばせ”が口癖で、状況に応じて使い分けができるアプローチやパットのセンスは天才的でした。一方、ジャンボさんは陰の努力がすさまじく、基本に忠実。青木門下の私にも“お前はもっと基本を大切にしないとダメだ”とグリップやアドレスを指摘してくれました」(同前)
闘争心むき出しでぶつかり合った2人だが、一方でお互いのことを深く認め合っていた。尾崎と親交が深いゴルフジャーナリストの三田村昌鳳氏が言う。
「尾崎が大スランプに陥った1981年頃、青木夫妻が予告もなく尾崎の誕生会に顔を出して激励したことがありました。青木は尾崎が自分をより高めてくれる存在であることをよくわかっていた。
1983年のハワイアンオープンで青木が勝ったことは、尾崎にとっても転機となった。その試合を自主トレ中に私と一緒に見ていた尾崎が“今後、頭の中から青木功を消し去る”と口にしたのをよく覚えています。つまり、ライバルを意識するより自分らしいゴルフを第一に考えようと気持ちを切り替えた」
以降、尾崎の強さは歳を重ねるごとに凄味を増した。40歳(1987年)以降の優勝回数(64回)は、30代まで(48回)を大きく上回っている。