松山英樹のマスターズ制覇で、日本の男子ゴルフ界は、ついに4大メジャーに手が届く新時代に突入した。早くから「アジア人だから、日本人だからメジャーを勝てないとは思わない」と公言していた松山の有言実行は見事だが、日本のゴルフ界にとっては、長い長い世界との戦いのなかで、その称号は遠い存在であり続けた。
日本のゴルフファンが「世界制覇」を意識し始めたのは、AONと呼ばれた青木功、尾崎将司、中嶋常幸らが全盛期を迎えていた70年代から80年代だった。早くから世界に挑戦した青木が、帝王ジャック・ニクラウスと「バルタスロールの死闘」と呼ばれたマッチレースの末に全米オープン準優勝に輝いたのは1980年。一方の尾崎は国内で無類の強さを見せつけ、通算優勝回数113回は今も世界プロツアー最多記録である。
『週刊ポスト』(4月16日発売号)では、さまざまなジャンルの「昭和のライバル史」を紹介している。青木と尾崎の激しい戦いが再現されるが、二人はゴルフスタイルも人間としても全く違うタイプだった。尾崎と親しく、両者をよく知るゴルフジャーナリストの三田村昌鳳氏が、週刊ポストで紹介できなかった二人の違いを語った(文中敬称略)。
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個性も違えばゴルフも違う。そんな二人が競い合えたのもゴルフだったからかもしれません。毎週のように試合があって、コースも違うからこそ、それぞれの個性を活かした戦いができたのでしょう。80年代から90年代にかけては、青木と尾崎が交互に日本オープンを制していた時代もあった。
二人は後に、世界と日本に主戦場が分かれたが、これは青木が上だったからというわけではなく、とにかく尾崎が海外嫌いだったから。飛行機に乗るのも嫌だし、食事も嫌だという。尾崎は自分の城を建てて功をなすタイプで、青木は旅を楽しむタイプ。農耕民族と狩猟民族みたいな違いがありました。世界中どこにいても平気で寝られる青木と、枕が替わると寝られない尾崎が、活躍の場を海外と日本に置いたのは必然だった。ライバル心というより、自分のスタイルをよくわかっていたからこそ自然に棲み分けができたということでしょう。