タレントのDAIGOは竹下登元首相の孫ながら、普段は政治的な発言は一切しない。だが、安倍晋三首相が辞意を表明したときだけは、自身のツイッターでこうコメントした。
〈祖父竹下登と、安倍晋太郎先生は仲が良く祖父は安倍晋太郎先生を総理に出来なかった事を、ずっと悔やんでいた事を思い出します〉
昭和の政治史に刻まれるライバルの物語について振り返ろう。
首相・岸信介の娘婿で「プリンス」と呼ばれた安倍、県議会出身で青年団からのたたき上げの竹下。総理の座を争った2人は、その来歴も対照的だが、若手時代から盟友だった。
大蔵官僚として政調会長だった安倍と折衝を重ね、竹下内閣では内閣内政審議室長も務めた的場順三氏が語る。
「ともに1958年の初当選で生まれ年も同じ。お互いに『安倍ちゃん』『竹ちゃん』と呼び合うほど仲が良かった。派閥内での立場も似ていて、安倍は福田赳夫が総理退任後も再登板を目指していたためずっと“プリンス”に留め置かれ、竹下も田中角栄の下でなかなか派閥のトップになれなかった」
竹下は1985年に田中に反旗を翻す形で創政会(後の経世会)を立ち上げ、安倍は1986年に福田から禅譲を受けた。そして1987年、中曽根康弘内閣の後継を争うことになった。
自民党安倍派だった元衆議院議員の伊藤公介氏が当時を振り返る。
「総理総裁レースは宮澤喜一さんを含めた“安竹宮”の三つ巴。マスコミは安倍有利と伝えていたし、安倍派の先輩議員たちも『安倍が先。本人もそう思っている』と言っていた」
しかし、中曽根裁定によって後継に選ばれたのは竹下だった。
「中曽根が竹下を指名した理由は、表向きは廃案に追い込まれた売上税(消費税)を実現させるためだとされている。だが、その後の関係者の証言によれば、竹下は中曽根に総理退任後の保証として、中曽根平和研究所の設立を進言、資金を出すと約束し、それによって中曽根の支持を得ることに成功した。安倍は中曽根から甘い言葉をかけられていたから、自分が指名されるものと油断していました」(政治ジャーナリスト・泉宏氏)