プロレス界では力道山から、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の時代に至るまで、団体内のレスラーの序列は歴然としており、あの猪木ですら日本プロレスにいた頃は馬場との序列を覆すことはできなかった。
初めてその“下克上”に成功したのが長州力である。長州はアマレスで五輪出場経験がありながら新日本プロレス入団後は前座でくすぶり、猪木に次ぐエース候補の藤波辰巳(現・辰爾)に大きく水を開けられていた。
が、運命の1982年10月8日、後楽園ホールで行なわれた猪木、藤波、長州が組んだ6人タッグマッチの試合中、長州はパートナーである藤波を挑発し、試合そっちのけで喧嘩を始めてしまう。その時、長州が叫んだとされるのが、「俺はお前の噛ませ犬じゃない」。実際にはその発言はなかったという説もあるが、体制に抗う姿勢は若者たちの心を鷲づかみにし、長州の人気が爆発。藤波との激しい戦いは「名勝負数え唄」と呼ばれるようになる。
挑戦を受けた藤波が、当時の心境を語る。
「年齢は長州が上だけど入門は僕が先だから先輩。僕がジュニアヘビー級として人気を得て、メインは猪木さんが締めていた。長州はいまひとつ試合の勘を掴めていない時代だった。しかし、あの日は違いました。
あの挑発をどう受け止めればよかったのか。ずる賢く受け流す手もあったんでしょうが、僕は受けて成立させるしかないと思った。それからは長州の気持ちを自分も味わったというかね、ジェラシーですよ。僕は女性ファンが多かったんだけど、男性ファンがどっと長州について、会場で双方のファンが喧嘩を始めるほどでした。会場はどこも超満員で、テレビ朝日には『視聴率1位達成』と貼り出されていた」
1983年に長州が藤波からヘビー級王座を奪取した一戦では、長州が試合後に「俺の人生にも一度くらい、こんなことがあってもいいだろう」という名言を残した。
「悔しさはもちろんあったけど、マサ斎藤と抱き合って喜ぶ長州が輝いて見えてね。羨ましかった」