1970年代に巻き起こった空前の「ボウリングブーム」を牽引したのは、ミニスカート姿の中山律子と須田開代子だった。「天下のライバル」と呼ばれた2人の関係のはじまりは、1969年の「第1回女子プロテスト」に遡る。2人の同期でともに「1期生」として活躍した女子プロボウラーの並木惠美子氏が語る。
「もともとアマチュアで実績のあった中山さんと須田さんは女子プロの中でも別格の“二枚看板”でした」
プロテストは4日間の計36ゲームでスコアのアベレージ180以上が合格ライン。3日目を終えた段階では中山がトップに立っていた。
「4日目の休憩時間に私がトイレに行ったら、偶然おふたりがいらしたんです。須田さんが一言、『中山さん、まだ終わってないからね』と言って、ピリッとした空気が流れました。プロテストの順位がそのまま日本プロボウリング協会(JPBA)のライセンスナンバーになるので、中山さんより4歳年上だった須田さんはなんとしてもトップ合格したかったのでしょう」(同前)
最終的に須田が逆転してトップ合格、永久に残るライセンスナンバーは「1」となり、2位の中山は「2」となった。
女子プロの誕生後、ボウリング人気は一気に爆発。テレビ放映された試合がON全盛期の巨人戦の視聴率を超えることもあった。
女子に先駆けて1967年に誕生した男子プロの1期生・矢島純一氏が語る。
「中山さんと須田さんはお互いをライバルとして強く意識する一方で、自分たちが競い合うことでボウリング人気が上がるということをよく理解しておられました」
対照的なキャラクターのライバル構図も、ファンを惹きつけた。
「須田さんはプロ意識が高く、実力も文句なしで非の打ちどころがない。一方の中山さんは『さわやか律子さん』としてシャンプーのCMに起用されるほどの人気があった。優勝回数は須田さんの方が上(須田43回、中山33回)ですが、中山さんはテレビで女子プロ初の公認パーフェクト(12投連続ストライク)を達成した。そういう意味では須田さんが記録に残る王貞治さんタイプ、中山さんが記憶に残る長嶋茂雄さんタイプでした」(同前)