2014年に83歳で惜しまれつつこの世を去った高倉健。今年は各地で生誕90年のイベントが開かれるなど、昭和・平成を代表する映画スターとして、その人気はいまだ衰えることがない。生前は寡黙なイメージを貫いた高倉だったが、実際はどうだったのか。元東映宣伝担当で親交が厚かった佐々木嗣郎氏が述懐する。
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当時のスター俳優、たとえば健さんと並ぶ看板だった鶴田浩二には「鶴田一家」と呼ばれる大勢の取り巻きがいて、酒も飲んで浮名も流しましたが、健さんはごく限られたスタッフ、京都撮影所だと私を含めた4~5人を「仲間」と扱って深く付き合うタイプでした。
健さんはお酒も飲まない。その代わり健さんはサイフォンで入れたコーヒーが大好きで、1日10杯は飲む。京都で撮影が終わると、食事、サウナ、それから11時頃から2~3時間、私ら気の合うスタッフとサイフォンのある喫茶店に行くんです。健さんはじっとサイフォンを見つめながら、好きな車や映画の話をする。
ふだんの健さんはユーモアに溢れた男でした。喫茶店で話し込んでいると、向こうの席で見ず知らずの若い女性たちがハワイ旅行の話をしている。それを聞いていた、ハワイ通の健さんが彼女らを呼び寄せて、「ハワイに行くならあの店がいい、ここがいい」なんて紙に書いて教えてあげたりしていました。
当時はスター俳優をスタッフらが「先生」と呼ぶことが普通でしたが、健さんに「先生」と呼ぶと「誰が先生なんだよ」と怒るんです。そんなふうだから、撮影所でも健さん一派に入りたいというスタッフは多かった。撮影所の昼休憩では健さんを囲んで大きなテーブルで置いてある料理をつまみながら談笑するんです。