芸能界の引退は難しい。スターはいつまでも脚光を浴び続け、人気の落ちた者は自然と姿を消していくのが業界の常だからだ。そんななか、圧倒的スターとしての記憶を残したまま、表舞台から姿を消したのが昭和を代表する女優・原節子である。
1949年、小津安二郎監督の『晩春』を皮切りに1961年『小早川家の秋』まで6本の小津作品に出演。しかし、1962年の東宝創立30周年記念映画『忠臣蔵花の巻・雪の巻』を最後に映画出演は途絶え、引退宣言することもなく公の場にも姿を一切見せなくなった。
「42歳になった原節子が『畳みの上での芝居がしづらくなった』と女優仲間に語っていたという話や、戦時中に戦意高揚映画に出ていた責任を痛感したからなど、諸説語られていますが、いずれも憶測の域を出ません」(映画評論家の貴田庄氏)
同時代に活躍し、多数の共演作もある高峰秀子が、1979年の引退後もエッセイストや脚本家などとして活躍したのとは対照的だ。
「高峰は映画公開時の舞台挨拶にも積極的で、挨拶だけでなく歌ったり寸劇を見せたりしていたが、原は舞台挨拶そのものを断わっていた。人前に出て何かするのが苦手で、得手不得手がはっきりした映画女優でした」(同前)
貴田氏は、小津監督が1963年12月に亡くなったことが、引退の引き金になったのではないかと推測する。
「『晩春』『麦秋』『東京物語』など、小津作品のなかでも代表作と言われるものに、原節子はすべて『紀子』役で出演している。それほど小津監督は原にベタ惚れしていた。お互いがお互いを認め合う、欠かせない存在だったのでしょう。
1963年は東京五輪の前年でテレビが普及し始めた、テレビドラマへの移行期。映画産業そのものの勢いが失われつつある時代でした。“銀幕で演じることがすべて”だった彼女は、ここが引き際だと悟ったのかもしれません」
1993年、小津作品で共演した笠智衆(享年88)の通夜前に姿を現わしたのが最後の目撃情報で、1994年には自宅の土地を売却して長者番付に載ったことが話題になった。
2015年9月、肺炎のため死去。訃報がメディアで報じられたのは、その2か月半後のことだった。
※週刊ポスト2021年5月28日号