今年2021年は真珠湾攻撃から80年という節目を迎える。真珠湾攻撃は米国において、「リメンバー・パールハーバー」という言葉に象徴される負の歴史として記憶されているが、その一方で戦後、敵ながら米国でその奮戦ぶりが讃えられた日本軍人がいる。
その男、藤田信雄中尉は、帝国海軍のイ二五潜水艦から水上偵察機を飛ばし、米国本土に対して航空機による爆撃を実施した。現在にいたる米国の歴史の中で、ただ一度の本土空襲だった。その戦果は戦後、米国で広く知られるようになり、レーガン大統領からホワイトハウスに掲揚された星条旗を贈られる栄誉に授かった。
藤田中尉の足跡は謎に包まれていたが、このたび彼が残した膨大な手記が発掘され、『わが米本土爆撃』(毎日ワンズ刊)として刊行された。手記の公開にいたる経緯を、娘の浅倉順子氏はこう綴る。
〈父は一種の記録魔でした。どんなときでも日常の行動や状況を克明に記録し、日記や日誌して残しました。本書はすべてこれらの日記や日誌をもとにしたものです。
もともと筆まめでしたが、航空兵になってからは記録することの重要性に気づき、それを一日も欠かすことなく実行しました。私が今、手にしているのは、分厚い二十七冊のノートです。ノートはA5サイズで、細かい文字で日々の行動がびっしり書かれています。繙ひもとくと、たとえば昭和十六年十二月八日のページには、
「待ちに待ちたる日は来た。今朝、機動部隊の飛行機、全力をあげ真珠湾攻撃。遂に英米に対し宣戦布告……」とあります。
また搭乗していたイ25潜水艦が敵艦を沈めた翌日には、「米国ラジオ放送で昨日の商船、撃沈されたることを発表。乗組員は救助されたと。戦いはしていても深夜までラジオ放送を行ない、音楽ばかり流している。日本ほど緊張しておらぬと思う」と書いています。
ただ欠落している部分もあり、戦後書き足したと思われる箇所や切り抜きなどを補ったページもあって、雑然とした感じがします。おそらく欠落した部分は、もしもの場合、戦時中にお会いした高松宮殿下にご迷惑をおかけすることを恐れ、人知れず切り取ったものと思われます。
父には、自分が書いたものを世に出すつもりは毛頭なかったと思います。しかし、このまま原稿やメモが散逸してしまうことは忍びないという思いがあったことも事実です。原稿を読み返すうちに、そういう父の思いが、一層強く、伝わってきました。このたびの本では、そうした父の原稿を内容的に組み込む形で編集していただきました〉(同書より)
この手記により、史上唯一の米本土爆撃の詳細が明らかになった。1942年9月9日の夜明け、巨大な山火事を起こして米国を混乱に陥れるため、藤田中尉と奥田省二・飛行兵曹はオレゴン州の沖合からたった一機の水上偵察機で米本土に侵入し、大森林に計120kgの焼夷弾を投下したのである。
〈「奥田ッ、爆弾投下用意!」「ヨーソロー」「撃てーッ!」
日本から四千五百カイリ、はるばる潜水艦で運ばれた爆弾第一号が、まっしぐらにエミリー山のふところに吸い込まれていった。