コロナ禍に苦しみ、目前に迫るオリンピックも心から歓迎できない日本人にとって、いま一番楽しみで明るい話題がエンゼルス・大谷翔平の活躍かもしれない。打ってはホームラン王、打点王を争い、投げてはメジャーでもトップクラスの剛速球、さらには盗塁やセーフティバントでも沸かせる姿に、朝から勇気と元気をもらっている人は多いだろう。しかし、その大谷もメジャー移籍後に肘の手術を受け、投げられない期間も長かった。アメリカでも、「投手は諦めて打者に専念すべき」という声が多かっただけに、二刀流の復活劇はよけいに賞賛されている。
『週刊ポスト』(5月24日発売号)では、「昭和の傑物が成し遂げた世紀の復活劇」を特集している。各界、多士済々のスターの秘められたエピソードが明かされるが、なかでも鮮やかで壮絶な復活を見せたのが昭和の歌姫・美空ひばりだった。1988年4月、1年前から病に苦しみ、もう歌えないのではないかと周囲も諦めかけていた50歳のひばりは、伝説となった「東京ドーム不死鳥コンサート」で39曲を歌いあげてファンを歓喜させた。
しかし、そのコンサートでも控室にはベッドや酸素ボンベが置かれ、医師が控えるという厳戒態勢だった。そして翌1989年6月、呼吸不全のため52歳で帰らぬ人となったのである。ひばりの晩年は苦しみと波乱に満ちていたが、歌うことへの情熱と多くの人に愛された人柄は変わらなかった。葬儀では弔辞も読んだ親友・中村メイコに、改めて知られざる「ひばり伝説」を聞いた(文中敬称略)。
* * *
長い付き合いで、歌手・美空ひばりをよく知っている私から見ると、あの不死鳥コンサートも本来の姿ではないなあと感じました。何十年も応援していたファンも気づいたんじゃないでしょうか。例えば、ブレス(息継ぎ)の仕方も初めて見るものでした。足が悪かったからハイヒールを履けず、小さく見えましたしね。唇が渇いて舐めるような仕草も、体調が万全ならしなかったでしょう。
実は私は別の公演があってコンサートには行けず、後にひばりさんと一緒にVTRで見たのですが、夫の神津(善行)は最前列でひばりさんを見守りました。エンディングで花道をゆっくり歩く様子が苦しそうで、神津もつらくて泣いたと言っていました。その頃は、ひばりさんが私の家に遊びに来た時には、神津がおんぶして二階まで上がってベッドに横になるような状態でしたから、もう歌しかないひばりさんが精一杯にやり遂げたコンサートだったということでしょう。