新型コロナウイルスの感染拡大によって開催が1年延期された東京五輪2020。そして、1年経ってもなおコロナ禍は収束せず、開催を不安視する声も多い。いわば、誰もが喜ぶべき大会ではなくなってしまった東京五輪2020。しかし、1964年に開催された東京五輪を振り返れば、日本の経済成長のきっかけとなった大会として、歴史的にも重要な存在となっている。
1964年には、東海道新幹線や東京モノレール、地下鉄日比谷線、首都高速道路などの交通網が次々開通。東京の都市機能が飛躍的に発展した。日本武道館や代々木体育館などの五輪施設だけでなく、ホテルニューオータニ、東京プリンスホテルなどの大型ホテルも1964年に完成した。
あらゆる業界で進化・改革が始まった
「変わったのは、インフラや街の様子だけではありません。多くの業界が進化しました」
と話すのは、日本近現代史に詳しい産業能率大学・自由が丘産能短大兼任教員でジャーナリストの嶋田淑之さん。
「当時、世界の人々が一堂に会する五輪を開催するために、日本に決定的に欠けていたことが4つありました。それは、【1】選手村での飲食供給能力、【2】多言語対応能力、【3】コンピューター活用能力、【4】公的な警備能力です」(嶋田さん・以下同)
「いちばんの課題は【1】でした。当時の飲食業界には、レシピやテクニックを他人に公開しない職人気質があり、それが選手村の食事提供でネックとなりました」
仕入れや調理を各々で行うのが当時の料理人の慣例。そうした中、選手および関係者1万人分を毎日3食、しかも世界の食文化に対応しながら用意するのは至難の業だった。
「そこで、選手村『富士食堂』の料理長を任された、帝国ホテル新館料理長(当時)の村上信夫さんは、冷凍食品に着目しました。そして、市場価格に影響しないよう、数か月前から、冷凍・解凍技術の研究・改良、冷凍食品を活用した仕入れを進めました。
並行して、全国から料理人たちを選抜し、バックヤードにサプライセンターを設置、そこで基本的な調理を行う方式(現在のセントラルキッチン方式)を確立しました。
分業体制を敷き、レシピやノウハウを全員で共有することによって、均質で高水準の料理を大量かつ短時間で作ることが可能になったのです」
その結果「五輪史上、最もおいしい食事」と、各国から絶賛される。また、各チームの料理人が地元に戻ることで、世界の料理レシピと調理技術が日本各地に広まった。その後、冷凍食品とセントラルキッチン方式がファミレス業界を創出するなど、五輪は外食産業の大きな分岐点となった。
【2】の分野を後押ししたのは、トイレや非常口などがひと目でわかる「ピクトグラム(絵文字)」の登場だ。
【3】の分野で目を引いたのは、選手たちがゴールをすると順位とタイムが速報で流れるシステムの開発だ。