白血病の闘病を乗り越え五輪代表権を掴んだ競泳・池江璃花子のように、さまざまな苦難を乗り越えた人の活躍は、大きな感動を呼ぶ。昭和の時代にも、劇的な復活劇が多々存在した。
その歌声で戦後復興に向かう日本人を勇気づけ、高度成長を支えた歌謡界の女王・美空ひばりだが、晩年を迎えた1980年代後半には、相次ぐ肉親の死や自身の健康問題に悩まされる日が続いた。
1985年にひどい腰痛に襲われ、1987年4月には公演先の福岡市内の病院に入院。その後に予定されていた明治座公演も中止を余儀なくされた。
ひばりは8月の退院会見で「もう一度歌いたいという信念が私の中に消えないでおりました」と涙ながらに語った。親友だった中村メイコが語る。
「入院した時、本当の病名は伏せられていたけれど、私は肝硬変だということを知っていました。退院後は、公演に和也さん(養子の加藤和也)がついて救急車で出入りするようになっていた。そんな姿を私に見せたくなかったんでしょうね。『メイコ、(公演には)来ないで!』と言うようになりました」
そうして1988年4月、ひばりは後に伝説として語り継がれる、東京ドームでの「不死鳥コンサート」を迎えるのである。控室には簡易ベッドや酸素ボンベが置かれ、医師が控えていた。それでもひばりはフィナーレの『人生一路』まで全39曲を歌い切り、ファンに復活を印象づけた。
「コンサートが終わった後、『映像が完成したから、メイコ、一緒に見よう』と言うので一緒に見たんです。満杯になった大劇場で歌うということを一番の幸せだと思っていたひばりサンだから、私とそんな気持ちを分かち合いたかったんだと思います」(同前)
その後も全国公演や歌謡番組への出演を重ねたが、元号が昭和から平成に変わった1989年の2月7日、九州厚生年金会館での公演が最後のステージとなった。