昭和の時代には圧倒的な魅力と存在感で他を寄せ付けなかった「最強軍団」がいた。政治の世界では、田中角栄が率いた自民党・田中派がそれに当たるだろう。
「当時は派閥政治の全盛期。派閥が認めなければ公認も出ないし、大臣や政務官、委員長の役職にも就けない。だから党本部になど行かず、派閥事務所にばかりいました。
そのなかで『田中派』はまさに最強派閥。お金のレベルが違った。盆暮れの手当ても、福田(赳夫)が50万、三木(武夫)は30万だが、田中は100万。結束も固く、総裁選の時に我々からこぼれる票はひとつもなかった」
そう振り返るのは、田中の側近で、自治大臣も務めた石井一氏である。
最盛期には140人以上の議員を抱え、「数は力」の論理で政界を掌握した田中派。巨大集団をまとめあげた田中は「本能的に、人との付き合いが大事であることが分かっていた」(石井氏)という。冠婚葬祭を重んじ、とりわけ葬儀には「二度目はない」と必ず駆けつけた。
「社会党の大出俊の親族が亡くなった時、田中に『おい石井、ちょっとワシの代わりに行ってくれ』と言われて、香典を渡されました。分厚くて50万くらいは入っていたでしょう。大出俊といえば“国会止め男”で、いわば政敵。その親族の葬儀に50万も出すとは、と思ったものです。
喪服に着替えて出る用意をしていたら『時間ができたんでな。ワシが行くよ』と言って本人が出席した。他党であっても義理は欠かず、そのうえドーンと張り込む。田中らしいと思いました」(同前)
田中は1976年、ロッキード事件で逮捕され、1983年の一審で懲役4年、追徴金5億円の有罪判決を受ける。だが、判決をきっかけに田中派の団結は強固になったという。
「田中は無罪を信じていて、判決の日は数人で朝飯を食った後、『ハレて帰ってくる』と言って出ていった。そもそもロッキード事件は、本人が与り知らぬ内容ばかりだったからね。判決を聞いた田中は怒り心頭だった。『自分はいかなる罰も受け入れるが、法をねじ曲げ、でっち上げ判決を出した司法はぶっ潰す』と。以降、田中はそのことに執念を注ぎました」(同前)
判決後、田中は自民党を離党。にもかかわらず、田中派は自民党内で勢力をさらに拡大した。
「司法をぶっ潰して立て直すという正義のために、再び総理を目指そうとした。田中派が140人まで拡大したのはこの時のことです。自民党議員ではない田中が、党内最大派閥を率い、大臣人事では主導権を握り、総理に対する拒否権まで主導できるようになった」(同前)
“目白の闇将軍”と呼ばれた田中の業績には賛否があるが、これだけの影響力を誇った政治家は、その後もいない。
※週刊ポスト2021年6月11日号