東京五輪の開催是非については日々侃々諤々の議論が交わされている。コラムニストの石原壮一郎氏が考察した。
* * *
「今の状況で(五輪を)やるというのは、普通はないわけですよね、このパンデミックで」
6月2日の衆議院厚生労働委員会で、政府分科会の尾身茂会長の口から驚きの発言がありました。いや、多くの人が思っていることではあります。ただ、これまで慎重に言葉を選びつつ、政府を補佐する役目を辛抱強く果たしてきた尾身会長がそこまで踏み込んで言ったことで、日本中に緊張感が走ったと言えるでしょう。
翌3日の参議院厚生労働委員会でも、同様の発言で警鐘を鳴らしました。もちろん、脅すだけでなく「それでもやるとしたら」と仮定した上で、何をする必要があるかを提言しています。別の委員会でも「(スタジアム以外の感染リスクは)東京だけではなく全国のほうが、はるかに大きい」と指摘しました。
このまま政府に遠慮し続けるのは、感染症対策や公衆衛生の世界的リーダーとしてのプライドが許さなかったのでしょうか。じつに毅然とした態度でした。ただ、尾身会長としては立場上もキャラクター的にも、あんまりぶっちゃけた言い方はできません。発言をじっくり検証してみると、隅々まで大人の節度と配慮が行き届いています。
たとえば「やるということであれば」と前置きして、「オーガナイザー(主催者)の責任として、開催の規模をできるだけ小さくして、管理の態勢をできるだけ強化するというのは、私はオリンピックを主催する人の義務だと」と述べたくだり。遠回しに「ぜんぜんできてないしできる見込みもないのに、まさか本当にやるつもりじゃないよね」と、呆れつつ厳しく批判しています。深読みかもしれませんが、そうとしか聞こえません。
たぶん尾身先生は、オリンピックをやりたくて仕方ない国会議員や関係者に向けて、もっとストレートに、もっとガツンと言ってやりたいはず。僭越かつ大きなお世話ではありますが、尾身先生の無念を果たすべく(?)、国会での発言から立場上の配慮と品位と知性を抜き取って、わかりやすい表現に「翻訳」させていただきましょう。
「本来はパンデミック(世界的大流行)でやることが普通ではない。それをやろうとしているわけで、やるのなら強い覚悟でやってもらう必要がある」(尾身先生)
→【コロナの感染を押さえられてもいないのに、オリンピックをやるなんて、お前ら正気か。その首の上についてるのは何だ? スイカか? やれば感染が広がって、何百人か何千人かはわからないけど、死ななくていい人が死ぬんだぜ。それだけの強い覚悟があって、やるって言ってるんだろうな。まあ、覚悟なんてあるわけないか】
重ねて申し上げますが、これは勝手に想像力を働かせた上での「翻訳」であり、尾身先生はこんなことは言ってません。失礼ついでに、さらに続けましょう。