大政奉還という歴史の大転換をつくった英傑ながら、鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡した臆病者だと評価が二分されてきたのが、徳川慶喜。放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で草なぎ剛の好演でも注目を集めている徳川慶喜は、いったいどんな人物だったのか。フランス文学者の鹿島茂氏が読み解く。
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日本の近現代史で徳川慶喜ほど毀誉褒貶相半ばし、評価の定まらない人物はいない。一見したところ、行動や決断に一貫性がないと思えてしまうからだ。
たとえば、元々慶喜は水戸学の弟子筋にあたる長州の尊皇攘夷派にシンパシーを抱き、主要敵は薩摩と思い定めていた。だから、元治元年(1864年)、長州藩兵が大挙上洛したとき、禁裏御守衛総督(御所を警備する責任者)だった慶喜は、朝廷の会議で「長州が朝敵とならないよう理を尽くして説得し、京から退去させるべきだ」と主張していた。ところが、途中で長州を掃討する方針に転じ、薩摩藩にも協力を求めて御所を死守することにし、長州が市街戦を起こすと見事な指揮で鎮圧した(禁門の変)。
最大の謎は鳥羽・伏見の戦いにおける行動だ。慶喜の側近中の側近だった渋沢栄一も、25年の歳月をかけて編纂した『徳川慶喜公伝』(大正7年=1918年刊)の序文で次のような疑問を呈している。「大政奉還したのになぜ鳥羽・伏見で戦闘を行ったのか」「大軍で上洛すれば薩摩軍との戦闘が避けられないことは覚悟していたはずなのに、なぜ大阪から江戸へ軍艦で帰ってしまったのか」。
こうした謎は『徳川慶喜公伝』を精読すると解ける。結論から言えば、慶喜は徹底した尊皇第一主義者なのである。慶喜に大きな影響を与えた父・徳川斉昭と異なり、慶喜の思想の第一は「尊皇攘夷から攘夷を引いたもの」であり、開国か攘夷かは二の次三の次。しかも、頭で考えた抽象的な尊皇ではなく、生身の天皇に対する尊皇なのだ。自分の考えが天皇の意向に反しているとわかったときは必ず天皇に合わせる。それゆえ禁門の変のとき、孝明天皇(明治天皇の父。1831~1867)が長州に怯えて征伐の勅命を下すと方針を一転させたのである。
大政奉還も純粋な尊皇第一主義のなせる業だった。慶喜には幕府というものに対する愛着、未練がない。
尊皇第一主義ゆえの敵前逃亡
鳥羽・伏見の戦いは当初は薩摩側と旧幕側の私戦のはずだった。ところが、旧幕側に対する征討大将軍に任命された嘉彰親王に朝敵征伐の錦の御旗が与えられ、官軍vs賊軍の戦いにされてしまった。これは慶喜にとって耐えられない事態である。だから総大将の敵前逃亡という、日本の歴史において前代未聞、空前絶後の珍事を起こしてしまった。