森喜朗氏の女性蔑視発言や「オリンピッグ」問題……それでも日本社会を動かしている「おじさん」たち。「おじさん」が権力を握っている限り、「おじさん」の問題は日本社会の問題であり、女性の問題でもある。作家の鈴木涼美さんは新著『ニッポンのおじさん』(角川書店)で、ビートたけし、岡村隆史、星野源、木村拓哉、堀江貴文、菅義偉(敬称略)……はじめ、各界の「おじさん」たちの生態について考察した。東大院生、AV女優、新聞記者、文筆家など、幅広い活動と仕事を通して世の「おじさん」たちを観察してきた鈴木さんから見た、愛されるおじさんと嫌われるおじさん、許されるおじさんと許されないおじさんとは。ニッポンの「おじさん」は変わったのか。おじさんの現在地と、彼らを取りまく社会状況について、鈴木さんに聞いた。
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理解不能な「おじさん」と共存するために
──中年男性を意味する「おじさん」に、鈴木さんはどのような感情を持っていますか。
鈴木:私にとっておじさんは恋愛対象であると同時に、日本の組織のトップは悲しいかな、ほとんどおじさんなので、仕事をする上でも、おじさんと関わらずには生きていけません。たとえば本を出すのだって、おじさんのサインをもらわないといけない。だからおじさんに愛されたいと思うこともあれば、懐柔したいと思うこともあるし、イラッとすることも負かしたいと思うこともあるけれど、いずれにしろ、共存しなければならないと思っています。
昨今、おじさんの加害性やおじさんによる被害について、女性たちが言葉にするようになりました。それは尊い行為だと思っていますが、社会構造を変えていくのと同じくらい、今の社会でなんとか生き抜いていくのも大事で、私はどちらかというと生き抜くための表現に重きを置いているのだと思います。だからおじさんを批判しつつも、最終的にはどこかで許し合わなければならないと思う。おじさんへのクレームが目立つ社会にはなったけれど、多くの女性が別におじさんを駆逐したいと思っているわけではないので、おじさんにもあまり真面目に卑屈になりすぎないで欲しいと考えます。
──そのためには「おじさん」を理解することが第一歩になるということですね。
鈴木:女の私がおじさんの楽しみや苦しみを理解することは根本的には不可能だと思っています。身体的に密着することはあるけれど、女であることで何かしら共通点のある女同士や男を恋愛対象とするという意味でのゲイの男性との関係に比べて、おじさんと私には共通点が少ない。たとえばAVにも女から見たらすごくヘンな設定や女性を馬鹿にした設定があります。ただ、そういう理解不能性に対して、拒絶したり、大真面目に異議を申し立てる表現もあると思うんですが、私の場合は、ちょっとした嘲笑やからかいを含めて茶化す視座を持っていたい。悪口は言うけど大真面目に怒ってないよ、だけど、自分たちがヘンなことは自覚してね、という感じですかね。
──この時代に、あえて「男性」「女性」に分けて論じることの意味をどう考えていらっしゃいますか。
鈴木:私はおじさんを見るとき、その人の思想や作品、人間としての魅力も見るけれど、オスとしての魅力も見るわけです。女性を馬鹿にしない見識のあるおじさんを尊敬はしても、セックスしたいかは別、みたいに。人は「正しい」を愛するとは限りません。間違ってるけど欲情する、ということがあり得るわけです。これはヘテロセクシャルの同性同士の批評だと入りえない視点で、一つ、人を見る視点が増えるというか、視点がズレるんですね。性差に敏感なこの時代、人間を男女に分けることにそんなに意味がないと感じる人がいるのはわかりますし、そういう分け方にある種の有害さがあることは自覚していますが、性愛の対象について書くと、そうでない場合に比べて切り口が増えるし、ゆるみが出る。それが面白いと思っています。
というのは最近、人を善か悪かで振り分ける振る舞いが目立つと感じるからですね。それは有効なこともある一方で、それだけと、窮屈で息が詰まります。人間ってもう少し複雑でいろんな顔を持って生きていますから。