石破茂氏は自治大臣などを歴任した父・石破二朗の死後、三井銀行(現・三井住友銀行)を退職し、木曜クラブ(田中派)の事務局に勤務。1986年衆院選で鳥取全県区から出馬し、28歳の全国最年少で当選を果たした。石破氏が田中角栄氏について述懐する。
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角栄先生と話す時は必ず1対1でした。私だけでなく政治家の出処進退の時は常に1対1。私の場合は、時間は5分と決まっていて、サイドテーブルに呼び鈴が置かれていて、5分経つとチーンと鳴らす。「お前、出て行け」のサインです。だからお会いする前に、話すことをしっかり整理しておかないといけない。
選挙に出ることになり、暇乞いに目白を訪ねた時は「お前みたいなアンちゃんが、なんで自民党から出られるんだ? それは(他の候補者より)1億8000万円安いからだ」と言われました。なぜ1億8000万円なのか尋ねると、「名前の売り賃と信用代」だというのです。
「石破茂なんて誰も知らないが、お父さんの石破二朗のことは知っている。だからお前の名前はタダなのだ。あの偉大なお父さんの伜ならそんな変なヤツじゃないだろう、その安心感がタダなのだ」
そのうえで選挙区の有権者の数や面積などあれやれこれやを見積もると1億8000万円に相当する。それを譲り受けられるから出られるというだけのことだと。非常に悔しかったですね。
ただ、後から聞くと、羽田孜さんとか小沢一郎さんとか、2世議員には皆同じことを言っていたようです。それが角栄先生の新人教育だった。たしかに2世の中には親の名前に胡座をかいて「どうせ当選するよ」という人がたくさんいる。でも、そんなものは長続きしませんからね。
先生にはいろいろなことを教わりましたが、最も大きかったのは、「歩いた家の数以上の票は出ない。握った手の数しか票は出ない」ということ。余計なことは考えずにともかく歩けと指導され、地域の支援者と一緒に今日は200軒、次は300軒とひたすら回りました。結果はまさにその通り。私は5万4000軒歩いて、獲得したのは5万6534票でした。
しかし、私が当選した時は角栄先生はすでに脳梗塞で倒れていた。真っ先にご報告したくて目白に行きましたが、会うことは叶わなかった。
角栄先生の演説は天才的でしたが、忘れられないのが私の結婚式でのスピーチ。議員になる前でしたが、角栄先生に親代わりとしてご挨拶いただいたのです。