1980年、水戸に住んでいた先崎学氏は将棋界のトップ棋士だった米長邦雄氏に師事。小学校4年生から6年生までの3年間、東京・中野の米長宅で内弟子として過ごした。先崎氏が師との思い出について振り返る。
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小3の終わり頃に米長先生のお宅に連れていかれました。その時、先生に「よかったら、ずっとここにいてもいいんだよ」と言われ、夢のような気がして、すぐに「はい、いたいです!」と答えました。先に内弟子になっていたのが、小6で女流アマ名人戦に優勝した林葉直子さんでした。
昔は地方出身の才能ある若者が親元を離れ、東京や大阪に出てきて、師匠宅で内弟子になった。私や林葉さんはその最後の世代です。私はまだ小4で世間知らずもいいところ。入門翌朝、寝転がっている師匠をまたぎ「馬鹿もん!」と雷が落ちました。よく「破門だ」と叱られましたが、いま思えば先生はそんなに厳しくなかった。大変かわいがっていただきました。
先生の教えは「勢いのある将棋を指せ」です。これを内弟子の3年の間に何百回言われたか。「元気がない将棋を指しちゃいけない」と。先生は人間の「気」というか、目に見えないところを重視されていたんです。先生の対局の棋譜を並べてみると、緩んでいる駒がなく、盤上全体にハリがありました。
〈内弟子の林葉や先崎が巣立ってからも、米長氏は第一線で活躍し、1993年には史上最年長(49歳11か月)で名人位を獲得。1987年にプロデビューした先崎氏も2000年に棋界トップ10にあたる順位戦A級への昇級を果たしている〉
米長先生の勝負勘は独特でした。いまの若い人にはまったく理解されないかもしれませんが、身体が健康で締まっていて、気合が乗っていれば、その人には「勝負の神様が微笑んでくれる」と。対局中に顔が緩んでいるのが一番嫌いなんです。弟子の私は「最近のお前は指す時の顔がダメだ」と怒られたものです。
たしかに、気合のぶつかり合いみたいなところは、将棋の本質なんだろうと思います。
先生は常に将棋界をよくしたいと考えていました。羽生(善治)さんや私の世代は、そのマインドに影響を受けています。いまの若い人は羽生さんの姿を見て、何かを感じているかもしれません。