いよいよ東京五輪の開幕が近づいている。五輪の花形競技といえばマラソン。一般道で競技を行うからこそのドラマがあった。1964年の前回の東京五輪でも、マラソンでは激しい戦いが繰り広げられた。
1960年のローマ大会では裸足だったが、シューズを着用して東京五輪に出場したのがエチオピアのアベベ・ビキラ選手。トップで折返点を回り、独走して五輪2連覇を果たした。当日は沿道を15万人の観衆が埋め尽くしたという。折返点付近には、調布市と市体育協会によって1965年に記念碑が建立されている。
1964年の10月18日には、小雨の降るなかで50km競歩が行われた。それを記念して競歩折返記念碑と標識が現在、府中市の甲州街道沿いに立っている。
そんな注目競技において、開催国の期待を背負う選手たちは、どんな気持ちなのだろうか。1964年の東京五輪で、23歳で男子マラソン代表として戦った君原健二氏は言う。
「戦後19年で奇跡的な復興を遂げた東京での五輪に、国民の期待は相当なものでした。当時23歳の私に日本の代表はあまりの重圧。つらすぎて『楽しめばいい』『いや、日本のために頑張らなくては』という気持ちで揺れ動いていました。冷静さを欠いていたと思います。
沿道のものすごい声援に後押しされましたが、中盤以降から身体が重くなり、思うような結果を出すことができませんでした。円谷幸吉君は銅メダルでしたが、控室で悔しそうな表情をしていたのを覚えています」
君原氏の東京五輪での成績は8位。ライバルだった円谷幸吉氏(1968年1月に27歳で他界)の無念を、次のメキシコ五輪で晴らし、銀メダルに輝いた。
※週刊ポスト2021年7月30日・8月6日号