スポーツの世界では、競技中に身にまとうユニフォームの技術革新が、その競技の本質を根底からひっくり返すような事態が時折、起こる。その最たる例が競泳だろう。1964年の東京五輪当時の水着の素材はナイロン100%だったが、1976年モントリオールでポリウレタンの糸を使った水着が登場。動きやすさが向上した。それ以降も様々な進化を続けてきた。2000年シドニーではイアン・ソープが“全身水着”で3つの金メダルを獲得したことも注目を集めた。
「1996年アトランタの頃の自分はまだ、生地の少ないブーメランパンツでした」
そう振り返るのは、アトランタ、シドニー、アテネと3大会連続出場を果たし、2004年アテネ五輪では男子200mバタフライで銀メダルを獲得した山本貴司(現・近畿大学水上競技部監督)である。
「当時の日本選手団は、大会によってミズノとアシックスとデサント(アリーナ)という3社の水着を持ち回りで着なければならず、選手は水着を選べる立場になかったんです。アトランタでは男子がアシックス、女子はアリーナの水着だったと思います」
しかし、世界のトップスイマーの多くは、英スピード社の水着を使っていた。同社の水着はミズノがライセンス契約を結び、日本でも販売されていたが、「持ち回り」のシステムでは選手が自分にとってベストだと考える水着を選べない。選手からも反発の声があがり、3社の中から自由に水着を選べるようになったのがシドニー五輪だった。同大会前にはちょうど、ミズノとスピード社が共同開発した「サメ肌」水着が話題となっていた。山本が振り返る。
「僕はミズノに『ああしたほうがいい』『こうしたほうがいい』と意見を出しながら、スパッツ型の水着を履くようになった。すると、すーっごい身体がラクやったんです。それまでのブーメランと比べて浮力が得られるような感覚があり、何より泳いでいて足の疲労感がなくキックが打ちやすい。水着によって軽く身体が締め付けられることによって、水着が競泳の動きをサポートしてくれる感じが、疲労感を感じさせなかったんだと思います。『これは面白い!』となり、水着を足首まで伸ばしたらっもっとラクになるんじゃないかとか、いろいろな形を試しました」
12個の世界記録が誕生したシドニーの頃の山本は22歳で、バタフライの選手としてこれからピークを迎えようという時期で、泳ぐ度にタイムも飛躍的に伸びていった。
「イアン・ソープが着ていたような全身タイプやノースリーブ型もトライはしてみましたが、バタフライの選手であった僕の場合、肩にまで水着の生地があることへの違和感が消えなかった。バタフライの場合、両腕を一緒に前に伸ばしますよね。肩の筋肉が抑えつけられるような負担がかかって、ものすごく肩が凝った。おそらく自由形や背泳ぎは片腕ずつ伸ばすので、バタフライほどのストレスは感じなかったでしょう」