高度成長期のニッポンを牽引した「昭和ヒトケタ」世代。自らの力で前を向き、上を向いて生きていこうとした彼らは、後の世代にどんな教えを残したのか──。(文中一部敬称略)
土俵の鬼と呼ばれた第45代横綱・初代若乃花(2010年没、享年82)は昭和3年生まれ。戦後最軽量横綱(体重105kg)ながら、鍛え上げた足腰で巨漢力士をねじ伏せた。
NHKアナウンサーとして43年間相撲中継を担当してきた昭和5年生まれの杉山邦博が言う。
「若乃花さんは、私を含め小さい頃に戦争を体験し、その苦しみを乗り越えた世代の象徴的な方です。父親が傷痍軍人で、北海道・室蘭では敗戦直後に長男として一家を支えた。ろくに学校にも行かず、港で鉄鉱石の荷下ろしをしていました。
入門は18歳のとき。地元にやってきた巡業に飛び入りで参加し、大ノ海(後の師匠=花籠親方)の目に留まった。東京に出てきたときの話は何度も若乃花さんに聞かされました。“杉山君、上野に降り立ったら新宿が見えたんだよ”と。あたり一面が焼け野原だったんですね。当時は我慢するのが当たり前。汗をかいて(稽古を)やめるのはダメで、汗が出なくなるまで70番も80番も稽古した」
引退後は二子山部屋を興し、2横綱、2大関を誕生させる。そのうちの一人が実弟の元大関・貴ノ花だが、10人兄弟の末っ子で、初代若乃花の22歳年下となる。
「自分と同じ苦労をさせたくなかった若乃花さんは入門に猛反対しました。お母さんの説得で入門に至りますが、“今日から兄でも弟でもない。師匠と弟子だ”“勝負師は人前で涙を見せるな”と厳しく言いつけた。黙々と稽古に励むという大相撲の大切な部分が伝承されていきました」(杉山)
弟である貴ノ花と結婚した藤田紀子(当時は憲子)さんは、後に藤島部屋、二子山部屋のおかみとして数多くの関取を育てたが「親方(貴ノ花)の稽古指導の厳しさは、先代(初代若乃花)から受け継いだもの」と振り返る。
「とにかく稽古を重ねて、“心臓を鍛えないといけない”と話していました。先代の時代は、力士たちが一家を支える大黒柱となるためのガッツがあった。そういう時代に強い力士をたくさん誕生させたのが先代でした。当時は“無理偏にげんこつと書いて兄弟子と読む”と言ったように、どんな無理な注文でも、言うことを聞かないと殴られるのは当たり前でした。
その点、うちの親方は、私が“世間の常識に照らすとおかしい”といったことを言うと、聞く耳を持っていましたね。時代の変化に適応した考え方だったとは思います」