山本リンダのヒット曲『どうにも止まらない』は、作詞家・阿久悠さんによる挑戦的な歌詞が刺激的だった。この歌詞と出会った時、山本はどう思ったのか。当時の思い出と阿久さんへの思いを山本が語る。
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『どうにもとまらない』がなかったら、今の私はないんです。
1966年に遠藤実先生の『こまっちゃうナ』で歌手デビュー。ミノルフォンレコードにとって起死回生の初の大ヒットになりました。でもその後はだんだんヒットが出なくなり、ヒット曲を出すことの難しさを思い知る日々が続きました。
1971年にキャニオン・レコードに移籍しましたが、キャニオンにもヒットがなく、そこでフジサンケイグループの会長さんが社運をかけてプッシュする歌手を決めようと、フジテレビのスタッフを集められて、所属の歌手の中から多数決で私を選んでくださいました。
プロジェクトの始動にあたって、フジテレビのプロデューサー吉田斉さんが作詞の阿久悠先生と作曲の都倉俊一先生に、「山本リンダをバラバラにして建て直してほしい」と頼まれたそうです。その結果、歌で世界を巡ろうというのがコンセプトになり、1972年の『どうにもとまらない』がブラジル、『狂わせたいの』がペルシャ、『じんじんさせて』が中国、1973年の『狙いうち』がロシア……と大ヒットが続きました。
『どうにも~』の歌詞を読んだ時、「カッコイイ! 待ってた通りの歌だ! これが駄目なら私は歌手としてもう駄目だ!」との思いで必死に頑張りました。のちに阿久先生はご著書で「男尊女卑が歌の世界でも続いていた。だから女性上位の詞を書きたくて、山本リンダでそれを実現させた」というようなことを書かれていました。このような大役に選んでくださったことに感謝の思いでいっぱいです。
阿久先生と都倉先生による一連の曲で私はイメージチェンジすることができたのです。1990年代には第3次リンダブームが起きました。お二人の作品には時代も世代も超える魅力がある。これからも歌の主人公になりきって歌い続けます。
【プロフィール】
山本リンダ(やまもと・りんだ)/1951年生まれ、福岡県出身。1962年にモデル活動を開始、1966年に歌手デビュー。1972年の『どうにもとまらない』からの一連の作品でリンダ旋風を巻き起こした。
取材・文/濱口英樹
※週刊ポスト2021年8月13日号