遺された家族の心に刻まれる、巨星たちが遺した「言葉」。第48代横綱・大鵬の娘・納谷美絵子さんが振り返る。
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私が生まれた時は、父(大鵬)は現役を引退して大鵬部屋を興していたので、親方としての父しか知らないんです。相撲部屋の娘だったので、周りにはお相撲さんばかり。娘の私たちでも父が怖かったので、力士たちはもっと怖かったと思います。父が稽古場に姿を見せると、空気がピーンと張りつめてました。
〈6連覇2回を含め優勝回数は32回。昭和の大横綱は引退後、一代年寄として大鵬部屋を興した。1977年、脳梗塞で左半身麻痺となったが、家族の支えもあって回復し、相撲協会理事に就任。2013年1月19日、心室頻拍のため72歳で死去した〉
私は3人姉妹の末娘ですが、父は男の子を期待していたようで、私が女の子とわかってから病院にも来なかったそうです。それでも末娘なので可愛がってもらいましたが、高校時代でも門限は18時だったりして厳しい父でした。
家族にも力士にも無言の教えを貫いた人でしたが、若い頃に苦労したことはよく話していました。戦時中にサハリンから引き揚げてきた時に、貧乏だった話はよく聞かされました。そして「現役時代は大変だった」「俺は天才ではなく、一生懸命稽古をしたんだ」「毎日コツコツやる。努力は嘘をつかない」というのが口癖でした。とにかく基本に忠実で「四股、すり足、テッポーをやるんだ」といつも言い聞かせていましたね。力士たちだけでなく、私たちにも言っていました。
〈2004年1月、美絵子さんの夫である元関脇・貴闘力に部屋を譲った。ところが貴闘力は不祥事によって相撲協会を解雇され、「大鵬親方の養子でいられない」として美絵子さんと離婚。部屋は大鵬の愛弟子の大竜(現・大嶽親方)が継承した〉
彼(貴闘力)は4人の子供を力士にするつもりでした。特に長男(納谷幸男)には厳しく相撲の指導をしていましたが、父の考えは違った。父は「そんな風にさせなくていいから。好きなことをさせればいい」と常に言っていました。だから長男はプロレスラーの道に進みました。次男(鵬山)、三男(王鵬)、四男(夢道鵬)は自分の意思で相撲の世界に進みました。父は次男が中学生の時に亡くなったので、孫たちに本格的な相撲の指導をすることはなかったですね。孫たちが試合で負けてもニコニコして見ていました。将来的に楽しみにしていたのは間違いないので、プロの世界に入った今なら、専門的なアドバイスをしてくれたでしょうね。
彼(貴闘力)が部屋を継承した時は、ほぼ父と一緒にやっていたようなもので、よくぶつかっていました。