遺された家族の心に刻まれる、巨星たちが遺した「言葉」。俳優・若山富三郎さんの息子・若山騎一郎が振り返る。
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小さい頃、おふくろには「父親は病気で死んだ」と聞かされていた。でも仏壇はないし、赤ちゃんの頃の写真で俺を抱いているのはどう見ても若山富三郎だった。でも子供心にも聞いてはいけない気がしていた。若山富三郎が親父なんだとはっきりわかったのは中学生の頃だった。
〈『緋牡丹博徒シリーズ』『子連れ狼シリーズ』や『魔界転生』などで知られる大スターの富三郎は、騎一郎が生まれてまもなく離婚した。10代で千葉真一主宰のジャパンアクションクラブに入団するも怪我で退団した騎一郎は、父の「若山企画」の門を叩いた〉
20歳の時に親父のところに挨拶に行くと、「大きくなったな」と言ってくれた。「お前どこか事務所決まったのか」と聞くので、まだ決まっていないですと答えると、3日ぐらいしてから親父から電話がきて「うちに入るか」と言われました。
それまで会うといつもニコニコと笑顔だった親父は、その日から180度人が変わった。同じ芝居の世界に入ったらもう地獄だった。一度、あまりにも理不尽に殴られるから兄のように慕っていた安岡力也さんに電話して「一度、シメましょうよ、2人なら勝てますよ」と言ったの。そしたら「なに言ってんだよ。勝つ負けるの問題じゃねぇんだよ」と止められた(笑)。
あの安岡さんも親父にはビビってた。
〈富三郎は1992年4月2日、急性心不全で亡くなった(享年62)。別れは突然だった〉
糖尿病があって、心臓もハワイでバイパス手術していて、腎不全も起こしているから人工透析を週に2、3回受けていた。親父とは頻繁に会っていたけど、撮影所に近い京都に移り住んでからは2か月に1回くらいの頻度で会いにいきました。
人工透析が辛いと言っていたので見舞いにいったら、ものすごい顔で「お前、何しに来たんだ!」って怒鳴られた。見られたくなかったんだと思う。その日は病院に付き添ったけど、親父は病院食をまったく食べない。病院の炊事場を借りて弟子たちにラーメンを作らせて食べていた。お医者さんはその姿を見て頭を抱えているの。
亡くなったのは、勝おじちゃん(富三郎の弟の勝新太郎)が事件を起こして、執行猶予付きの判決が出た直後だった。勝おじちゃんと、(中村)玉緒おばちゃん、(女優の)清川虹子さんと親父で麻雀をやっていたら、親父が突然、バーンって倒れた。それで病院に運ばれて心臓に電気ショックを何度か与えているうちに、勝おじちゃんが「いや、可哀想だから、お兄ちゃんにこれ以上苦しませちゃいけない」と断わって、そのまま亡くなった。