1年夏から甲子園制覇を果たし、5季連続出場、3年夏も深紅の大優勝旗を手にする──100回を超える歴史のある夏の高校野球において、1983~1985年のPL学園における桑田真澄と清原和博ほど鮮烈な印象を残したコンビはいない。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、PL学園の伝説のスカウトマンや最強世代の同級生が驚愕した「KK秘話」をいま明かす。(文中敬称略)
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85歳になる井元俊秀に指定されたのは、PL学園の最寄りとなる近鉄喜志駅から10分ほど歩く国道沿いの喫茶店だった。
伝説のスカウトマンとして、高校野球の世界で知る人ぞ知る井元との付き合いは6年になる。日焼けした肌は傘寿を過ぎているとは思えないほど若々しく、何より記憶力と、現場に通い詰める健脚ぶりにはいつも驚かされる。
ところがこの日は様子が違った。井元は杖をついて車から降りてきて、もともとの痩身がさらに痩せ細った印象を受けた。
「あんたとも(中学硬式野球である)ボーイズの練習を見に行ったことがあったよね。子どもたちの練習なら、何時間だって眺めていられるんです。ところがコロナで大会が中止になり、練習も自粛となった。出かけることがめっきり少なくなり、足が衰えてしまった。さすがに年なのかなあ」
井元はPL学園の1期生で、1962年に監督として同校を初めて甲子園出場に導いたあとは、選手を勧誘する担当として、名将・中村順司と共に常勝軍団を築いた。もちろん、桑田真澄、清原和博のKKコンビも井元が入学に導いた。井元は言う。
「5季連続で甲子園に出場して、桑田は20勝、清原は13本塁打を打った。あの時代、PLには努力の天才がふたりいた」
甲子園通算58勝、驚異の勝率8割5分3厘を残した元監督の中村は、桑田が大正中学2年生で、準硬式野球部に所属していた時に投球を目にする機会があった。その日は大阪大会の決勝で、相手中学のエースだった清水哲(のちにPLに進学)と投げ合った桑田は敗れている。
「私は入学してくれた選手たちはフラットな目線で指導するのを信条としていた。特別な印象は覚えていません」(中村)
一方、井元が桑田をはじめて見たのは八尾フレンド(硬式)の練習に参加していた時だ。中学野球部を引退した桑田は、高校入学までの間、小学生時代に所属したチームで練習をしていた。
「高校野球で活躍する投手は身長が174~175cmぐらいという持論が当時の私にはあった。PLでも体の大きかった尾花高夫や金石昭人などは、プロ野球の実績から考えると、高校時代は活躍できていません。現在のように大型の選手を成長させるトレーニングや医学的な知識がありませんでしたから」
その頃の桑田の身長は172cmぐらいだった。身長が伸びることを想定すれば、井元が理想とする体格といえた。
「キャッチボールから違った。フォームが美しく、ボールに伸びがあった。ボールの回転もいい。すぐにご両親とお会いした。お父さんが社交的な人でね、息子のことをよく自慢しておった」