地震が多い日本において、防災の観点からも地震の研究は重要だ。日本の地震学の基礎を作ったのは、明治政府が招聘したお雇い外国人、イギリス人学者のジョン・ミルンだった。1876年に来日、1880年に「横浜地震」を体験すると、日本地震学会の創立を牽引した。彼は最終目標として「地震予知」を掲げ、5歳年下のジェームス・ユーイングとともに地震計の開発に励んだ。
1891年に岐阜県南西部を震源に発生した濃尾地震は死者7000人、全壊家屋14万棟に及んだ。6m以上の地表の上下変動は、現在でも根尾谷断層として残る。これに危機感を抱いた明治政府は「震災予防調査会」を設立した。日本地震予知学会会長で、東海大学海洋研究所客員教授の長尾年恭氏が語る。
「調査会の目的は、地震による災害を軽減することでした。そのために建物の耐震性の研究とともに、地震予知の可能性を調べるための地震研究が行なわれた。調査会専任メンバーはいなかったものの、帝国大学の研究者が国費で研究を進めた。これが地震予知研究の第一歩となった」
「関東大震災」を機に「東京大学地震研究所」が発足
歩み始めた地震学会に大きな衝撃を与えたのが、1923年の関東大震災だ。
死者・行方不明者約10万5000人とされる未曽有の災害を予知できなかった反省から、1925年、東京帝国大学に地震研究所が設置された。現在まで続く「東大地震研」の誕生だ。
「濃尾地震後に設立された震災予防調査会の活動を引き継ぎ、それまでの統計的研究や観測だけに重点を置く方法ではなく、振動工学や物理学などの知見を積極的に用いました。東大地震研は今日まで研究発展を牽引し続けてきた機関となりました」(長尾氏)
初の地震予知計画「ブループリント」と阪神・淡路大震災の挫折
現在の地震予知研究に至る直接の源流は、1962年に地震研究者の有志によって発表された「地震予知─現状とその推進計画」まで遡る。
「通称『地震予知のブループリント』と呼ばれる地震予知計画で、地震予知の実現可能性を明らかにするために、観測研究がどれくらい必要かを検討したものでした」(長尾氏)
ブループリントは、地震観測網や地殻変動観測網を全国的に設置することが提案された点で画期的なものだった。当時、地震発生の直前に起こると考えられていた地震波の速度変化や電磁気現象に関する観測の必要性も説かれた。