映画史・時代劇研究家の春日太一氏による、週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、俳優の永島敏行がデビュー当時について語った言葉を紹介する。
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永島敏行は専修大学の学生として準硬式野球部に所属していた一九七七年、鈴木則文監督の映画『ドカベン』で俳優デビューしている。父親が永島に黙って同作のオーディションに応募、野球の能力を買われてこれに合格したのがキッカケだった。
「稽古はちょっとだけしてくれたんですけども、演技の勉強とかは全くなかったですね。
いろいろな映画を観てきたので目だけは肥えていたと思うのですが、ラッシュで自分の芝居を観た時に『こいつはダメだ。こんな下手は今まで観たことがない』と思いましたよ。
則文さんはその下手さを逆に狙ったのかもしれません。僕は真剣にやればやるほど下手になるところがあるんで。ただ、自分としては『もう観たくない』という芝居でした」
翌七八年には東陽一監督の『サード』に主演、若手俳優として大いに注目されていく。
「これも父親が勝手に応募したんです。でも、このオーディションには行きませんでした。僕は野球部に戻っていて、当日は試合があったんです。
当時は連帯責任というのがあって、一人がサボることで他のみんなに迷惑をかけるわけにはいきませんでした。
ところが電話がかかってきて『オーディションで該当者がいなかったので、面接に来てほしい』と。それで行ったのですが、『ドカベン』で売り込みたくなかったのでそのことは言いませんでした。聞くことも聞かれず『もう帰っていい』と言われて、次の日に『君で行くことになった』と言われて。
寺山修司さんの書いた脚本をいただいたら『野球をやっている無口な少年』とあったんです。『君のしゃべらない顔がいい』ということでした。
寺山さんの脚本にはせりふが書いてないんです。シーンごとにテーマみたいなのは書いてあるんですが。群馬県の大胡の駅前にあるひなびた喫茶店で撮影をした際、東監督が『お前たち、そこで雑談してろ』って言うわけです。それで『お金をもうけるのはどうしたらいいか、ということを入れて話せ』とか振ってくる。おかげで僕らは演技しているという意識が全くありませんでした。自分の言葉でしゃべればいいので。
下手に演技しようとしたら酷いものになっていたでしょうけど、プロの人たちが僕らの自然な状態を切り取ってくれたんだと思っています」